いよいよ来週9月19日から山本義一遺作展vol.3始まります❗

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 台風被害が心配で二宮にきたが、実家のアトリエ天井内壁は、雨漏りの形跡がなく、安心している。
 二宮は、台風一過の秋晴れで、気温が高く、シニアカーで実家からラディアンや町役場に行くだけで汗だくになる。なんたってシニアカーは、人の歩く速度より遅いのだから、直射日光を浴びる時間は半端じゃない。日陰ならいいけれど炎天下、遮るもののないアスファルトの路上をタラタラ行くのは、拷問だぁ、とつい独り言もでようというものだ。沖縄のほうが風があり、もっと楽なような気がする。
 実家の狭い庭には、青桐の木がある。
 枝が延びて二階のベランダから葉っぱに手が届くようになった。今年の夏は暑さで五葉松の盆栽が惜しくも枯れていたから、この日の青桐の木陰は、ありがたい。父は、このような木の幹に、針金をかけてシャベルやはんのうなどを吊るしていたので、わたしは今、見るたび青桐が気の毒でならない。外してあげたから、少しは軽くなったかな。
 沖縄の図書館に行く途中に通る公園では、ゲートボールをするおじいたちがガジュマルの幹に釘うち?して、洗濯ハンガーをかけてタオルを干していたが、あれも父と同じ発想だろうか・・。
 さて、ラディアンの山本義一遺作展の会場で配布する予定の冊子文を作り、ラディアンにチラシの追加を置きにいくと、筑波大学名誉教授の吉井英基先生にバッタリ。戦争についての講座で、山本義一遺作展のチラシをみんなに配ってくださったという。ありがとうございます❗
 9月19日からラディアンギャラリーでの山本義一遺作展vol.3で配布する冊子文を添付いたします。


2019年 令和元年の「山本義一遺作展vol.3」に寄せて

 平成は、戦争のない平和な時代でしたが、災害に見舞われた時代ではありました。
平成最後の2019年、9月の台風により、二宮の家の三階天井内壁が崩落し、亡父・山本義一の描いた大量の油絵を移動させる必要がありました。
 伊豆から父の甥と姪が駆けつけてくれ、三階アトリエの絵を整理すると、『噫、牡丹江よ!』と記された80号の新たなカーキ色の戦争体験画がみつかったのです。
 義一の一周忌にあたる2015年から、ここ二宮町生涯学習センター「ラディアン」で遺作展を行ってきたのは、同名のタイトルの120号の青の『噫、牡丹江よ!』を多くの方にみていただきたい、というおもいがわたしたち遺族にあったからにほかなりません。
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 義一が84歳の2003年のイラク戦のころに描いていた120号の絵をみて、テレビで報じられている戦火を逃げまどう「イラクの女たちを描いたのか」と尋ねると、「満洲で引揚船を待つ人々の群れだよ」と言いました。海を表現するかのような青一色の画面中央には、赤ん坊に乳を与える母親と子どもたちが描かれています。
「お母さんは飢えておっぱいが出ない、この子はもう死んでいるんだよ」
 このとき、なぜ、もっと話の続きをと、うながさなかったのでしょうか。
 生存中はほとんど戦争の話を聞いたことはありませんでした。
 2013年から亡くなる2014年にかけて、父の絵でポストカードやカレンダーを作ろうと、簡単な年表を作る過程で、父が20歳で満洲へ渡り現地で関東軍の兵士として戦い、ノモンハン事件にも参加、そののちは日本陸軍に入隊していたことを知ったのです。
 終戦前に現地除隊し、新京特別市大同大街の「満洲生活必需品株式会社」の人事課に勤務。夜間の法政大学に通いはじめたものの終戦となり、元日本兵であることを隠してロシア兵から逃げ続け、29歳で葫蘆島から博多へ、引揚船にのって帰国。社員証と引揚証明書が残っており、新京の興亜街にあった会社の寮「大鵬寮」に住んでいたことが記されています。f:id:shimautaki:20190913113444j:plain
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 2015年11月5日、95歳で山本義一が亡くなり、通夜の会場に、青の『噫、牡丹江よ!』の絵を運ぼうと探すと、絵は枠から外されて巻いてあり、右上に白い文字で『噫、牡丹江よ!』と書かれていました。
 イラクの女たちを描いたものと勘違いしないように、ということなのか。戦争体験をことばで語らなかった父の遺言かもしれない。この絵はあだやおろそかにはできない・・。
 そんな思いから、2015年春に、滞在中に10点ほどの絵を描いた沖縄県八重山郡竹富島「ゆがふ館」での展示を皮切りに、名護市の沖縄愛楽園「交流会館」、琉球新報 天久本社ギャラリー、那覇市ぶんかテンブス館、そして二宮町生涯学習センター「ラディアン」で山本義一遺作展vol.1を開催。2016年秋には「ラディアン」と「ふたみ記念館」でvol.2を展示いたしました。
 そして、このたび平成最後の年に発見された「戦闘カラー」であるカーキ色の『噫、牡丹江よ!』。舞台は同じく満洲終戦の混乱を描いたものでしょう。
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 ロシア兵なのか、あるいは武器放棄を命じられてなすすべもない日本兵なのか、整列した兵士の前を、逃げ惑う女と子どもたち。杖をついた子も描かれています。兵士たちの静と、こけつまろびつ逃げる母子たちの動。静と動、異様な対比が緊張感とただならぬ緊迫感、恐怖と不安、無念さや憎しみといった感情を生々しく表現しています。
 『噫、牡丹江よ!』と右上に鉛筆でタイトルが書かれていますが、これから絵の具を塗り重ねていくべきエスキースのまま、この絵は中断されている・・。
 なにか心境の変化があったのか、先に描き始めたカーキ色の戦争体験画を途中でやめて、タイトルは同じではあるものの、まったく違う印象を与える青の『噫、牡丹江よ!』を描きだしたのではないか—―。
 心境の変化をもたらしたもの、それはなんでしょうか?
 娘ひとりの勝手な推理にすぎませんが、1996年に沖縄の竹富島に行ったことが大きいのではないか。日本で唯一地上戦のあった沖縄本島とはまた異なる桃源郷のような風景に出会い、光あふれる南の島の町並みに癒され、絵に表現することで、それまで心の奥に封印してきた戦争体験の闇にはじめて向き合うことができた・・。
 二宮、湘南の光あふれる風景画を経て、恐怖や憎しみを昇華させ、「沈静」を表わす青一色の『噫、牡丹江よ!』に至ったのではないか—―。
 青の『噫、牡丹江よ!』には、ネガティブな感情とは正反対の、失われた小さないのちへの、女たちへの「鎮魂の祈り」が込められているように思えるからです。
 令和元年、災い転じて福となす、のことわざ通り、青とカーキ色の二枚の戦争体験画は、新宿住友ビル33階の平和祈念展示資料館に収蔵されることになりました。
 思えば、vol.1の遺作展の折に、シベリア抑留者だったという方が、西新宿の高層ビルに平和祈念展示資料館があることを教えてくださってはいました。
 2018年、父のいとこにあたるシスター鈴木秀子先生が新宿朝日カルチャーで講演をされたときに、同じビルに平和祈念展示資料館があることに気づいたのです。
 館内を見学し、学芸員の方の説明を聞き、戦争体験者の語り部の方のお話会に行き、戦争について学びました。沖縄戦の取材以外には日本軍の歴史に関して不勉強であるわたしはまだまだ学び足りず、戦争体験者の方はいよいよ少なくなっています。
しかし、山本義一の戦争体験画は、未来の子どもたちにその体験を伝えるものとして収蔵が決まり、自分のいのちを輝かせる居場所をみつけたのです。
 実は、父が二宮に移住を決めたのは、妹によれば、高木敏子さんの戦争体験記『ガラスのうさぎ』のご著書を読んで感動したからとのこと。
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 終戦直前の8月5日、二宮駅あたりでの米軍の機銃掃射により、高木さんは目の前で父親を失いました。二宮駅南口には、その現場に『ガラスのうさぎ』像が建てられ、町は平和都市宣言をし、毎年8月5日には「平和と友情のつどい」を行っています(2019年は6日に開催され、高木さんは最後の講演会を行ったそうです)。
 義一が描いた『ガラスのうさぎ像のある二宮駅南口』の絵には、一見のどかな駅前の風景が描かれているようですが、平和への願いと祈りがこめられているのでしょう。
 山本義一遺作展vol.3の終了翌日には、二枚の戦争体験画『噫、牡丹江よ!』は、燻蒸のため指定の修復工房への搬送が決まっております。
 新宿住友ビル33階 平和祈念展示資料館での展示がいつ可能になるかは未定のため、山本義一がお世話になった二宮の方々に、ご縁ある人々に、ぜひとも搬送前に『噫、牡丹江よ!』が二枚並んで展示されるのをご覧いただきたいと思いました。
 この絵を間近でみていただき、どのようにお感じになるのか語り合い、身内の方の戦争体験を伝え合うきっかけになれば幸いです。
 本日は、お運びいただき、誠にありがとうございました。

令和元年(2019年)9月19日
山本義一遺族一同                           
【吉江眞理子・文】
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