2021 寒中お見舞い申し上げます!

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 2021年、1月もはや半ばになって、ブログを更新しようとしている・・。

 昨年、2月26日に義母が他界した。

 ちょうどそのころ新型コロナウイルスの流行がいわれはじめていたが、幸いにもまだ1年前の2月は、緩和ケア病棟での家族による看取りもできた。

 看護師さんたちの心遣いに感謝しつつ、交代ではあるが徹夜でつきそい過ごした病院での最期の時間。呼吸が弱くなってはまた振り絞るように「息をふきかえす」ことを何度か繰り返したけれども、明け方に波が引いていくように静かに消えた・・。

 その瞬間、わたしは臨死体験者であるシスター鈴木秀子先生がおっしゃっていたように、大きな白い輝く光に義母が包まれていったことを確信した。

 主治医がまだ来ていないので宿直の医師に死亡診断書を、と看護師さんがおっしゃっていたとき、夜明けの鈍色の空を窓から見ていると、ドクターが部屋に来て頭を垂れた。そうか、義母はドクターの到着を待っていたのだったか・・。

 しかし、そんなふうに思う間もなく、あわただしく部屋を離れ、さきほどまで息をしていた義母とともに葬儀会社の車で葬儀社の霊安室へ。最期につきそってくれた看護師さんが車まで見送ってくれる時、思わず彼女の手に、手を重ねてしまった・・。もちろん看護師さんは手袋をしていたけれども。

 まったく、人が亡くなると、こんなにも短時間でばたばたといろんな、それも重要な決定をしなくてはならないのだとは・・。

 葬儀に先立ち、前日に会場でおくりびとの若い男女のスタッフが、見事な所作で義母のからだをきれいに洗い、持参した黒留袖を着せてくれたときは、感動のあまり脚が震えるほどだった。美しいしぐさ、ひざまずき、うやうやしく丁寧に一連の行為を完璧に成し遂げる姿。白いシャツにベスト姿の彼らには、崇高ななにかが宿っていたようだった。

 ふたりの顔にあらわれていた、聖なる慈愛に満ちた輝く表情を、わたしは忘れないだろう。

 お通夜も、続く葬儀も規模を縮小して行うことにしたが、それでも通夜に群馬から義母のきょうだいや甥や姪がきてくれたのは、ほんとうにありがたいことだった。最期の最後まで、がんばる姿をわたしたちにみせてくれた義母に、あふれんばかりの花束を。

 告別式は、たった4人の、身内だけの見送りだったけれど、それがかえってよかったのではないだろうか・・。

 

 1年たったいま、病院での最期は、まったく異なっている。

 まず、病院や母のいる介護施設には家族が患者に会いに行くことができない。もしくは面会時間を限ってガラスドア越しにしか会えない。

 母の施設に妹が行くとき、先月にはラインでのテレビ電話で母と会うことができたのだが、これはガラス越しと画面越しという二重苦のため、なかなかうまく意思の疎通ができなかった。

 それでも手をふって!と頼むとそれにこたえてくれたので、正直ほっとしたものだ。ハガキも書いて送ってくれるので、文通がいまは唯一のツール。わたしがうつ病のさなかには人に手紙を書くなんてできなかったことを思うと、96歳の母の建脳ぶりに頭が下がる。

 実は、先週末、父のきょうだいのうち、ただひとり元気でいる95歳の叔父が亡くなった。去年の12月の20日ごろに緊急入院したとのことだったのだが、なんとかもう一度会って叔父のそして叔父の兄弟たちの戦争体験を聞きたかったのだが、かなわなかった・・・。

 10月のいとこたちとの柿狩りの時、11月にも会って、話を聞けたことがいまとなっては貴重な僥倖であった。

 静岡に行ったのは、折しもGO TOキャンペーンのさなかだったが、親戚たちのなかには感染爆発している都市部からくるわたしを内心恐れていた方もいらしたことだろう。それは無理もない。

 10月には会えたけれど、11月には会えない方もいた。

 静岡の街やホテル、下田の街にはこちらが心配になるほど観光客があふれていたが、ちょっと裏道の小さな飲食店に入ろうとすると「静岡県在住者以外はお断り」の札があって、それにはへこんだ。おそらく市役所関係の職員らしき人たちが、名札を下げて入っていくのを遠くから見て絶対おいしそうだとわくわくしながら近づいていくと、この札があり、札を前にしてひとり唇をかんだこともあった。

 ホテルのレストランでGO TOキャンペーンを利用してランチビュッフェを頼む客は料理をとりに行くときはマスクを外している、そんな姿に眉をひそめながら、自分が「県外の方、お断り」を飲食店などにいわれるのは疎外感を味わう・・、なんとも矛盾する感情を味わった。

 立場を変えるだけで意識が反転する・・。

 感情にふりまわされると、恐怖からの誹謗中傷、さらには偏見と差別ということにもなりかねないし、わたしたちはハンセン病問題でそれを学んだはずだったのに、社会のなかで立ち位置が 変わるだけで、相手の立場への想像力が消え、社会が分断されていく・・。移動することによって、立場を変えることで、皮肉にも見えてくる。

  ほころびがぽっぽっとたちあらわれていた・・。

 今にして思えば、そんななかでよく、95歳の叔父は会ってくれたものだと思う。叔父もいとこもわたしをこころよく迎えてくれてほんとうにありがたかった。こころから感謝したいと思う。

 正直に言えば、叔父に聞いた話の細部を確認したかったし、防衛研究所や県に問い合わせるためにも所属する軍を知りたかった。

 いまは叔父の冥福を祈り、そして6人、いや7人そろって天国にいる兄弟たちからのメッセージに耳をすませようと思う。

 2月に義母が亡くなり、母の飼い猫みーちゃんも父の命日11月5日に墓参りに行く途中その訃報を知り、わたしは落ち込んだ。年が明けて再会を熱望していた叔父もこの世を去った。

 しかし、いま振り返ってみると沖縄へは一度も行けなかった代わりに、(竹富島のたなどういに行くことはかなわなかったけれども)平和祈念展示資料館に提出する父の軍歴調査から派生して、父の兄弟たちの軍歴調査ができたことは、画期的なことではあった。

 おそらく沖縄へ通っていたら、自分の父親のきょうだいたちの軍歴調査までは手を伸ばす時間が取れなかったかもしれない。自分の身内のことは、かつい後回しになってしまうのは、そう、取材者の性かもしれない。消防士が災害のさなか自分の家族を後回しにするように、といったらお門違いでヒロイックと批判されそうだが、でも、ちょっとそんなところはわたしにもあった。まして親の戦争体験を聞くことは・・。そう、覚悟がいる。

 しかし、コロナのおかげで沖縄に行くことを自粛したわたしは、とうとう自分の内側に意識が向かっていった。

 stay homeをいわれ、不要不急の外出自粛をいわれ、そのおかげで、わたしは自分に連なる先祖たちの物語に少しずつこころを開き、耳をそばだてようとしていったのだった・・。

 それは、不思議な光に導かれて一歩また一歩と足を前に進めると、次々に開いていく扉のようだった。

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