『夜明け前のうた  消された沖縄の障害者』の上映中止をめぐるフォーラムに行ってきました。

12月25日 18:49 
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映画『夜明け前のうた 消された沖縄の障害者』に、文化庁は11月2日、映画賞を授与。
 しかし4日後に記念上映を取り止めている。
 この決定に抗して、記念上映が行われる予定だったスペースFS汐留で、原義和監督主催で行われた上映会&言論フォーラム『上映中止を問う なぜ隠すのか』に遅刻しながらも、駆けつけた。
 この映画のことは、藤井誠二さんの記事、石川真生さんの投稿で「私宅監置」という制度があったことを知り、現存している小屋の写真に衝撃を受けていたので、知人からメールがあり、あわてて上映会に申し込んだ次第であった。
 ことの次第は監督自身の報告によれば、那覇市で映画上映後に、映画に登場する方の遺族のひとりから
①映画制作のことは聞いていなかった 
②島の方が涙ながらに語る「私宅監置犠牲者の長男(故人)が島に戻りたくても(家は解体され更地になり)戻れない、辛いと思う」という、その語り手の主観が「事実と異なる」ので削除を求めている
 という申し立てがあったという。
 フォーラムに登壇した沖縄YMCA会長は、沖縄での上映後に受付にて、遺族からそのように言われた、と語っていた。映画館でまず表明し、そのあと文化庁に伝えたのだろう。
 文化庁は遺族からの申し立てがあり、「遺族の人権を傷つける可能性がある」と判断して、記念上映を取り止めた…。
 しかしながら、この私宅監置当事者のお孫さんが、監督がこのテーマについて語るテレビ番組を見て「自分の祖父の話ではないか」と連絡してきたのである。さらに映画のなかで、お孫さんが自身のルーツ探しのように初めて島を訪れ、件の、涙する島の方に、祖父について話を聞くシーンもまた、映画に登場する。
 映画化にあたり、監督はこのお孫さんからほかにも当事者の兄弟(叔父)がいることを聞き、連絡先を尋ねたがわからず、島の方々にも教えてもらえなかったと言った。 
 フォーラム登壇者の弁護士は「虚偽の内容があれば死者にたいして名誉毀損、人権侵害として法的に問題になるが、虚偽ではない」こと、「社会的信用を落とすとは法的に言えない」ことから、映画は人権侵害にはならないと語っている。
 法的に、というのであれば、むしろ、ここで重要なのは、1900年の精神病者監護法によって、こころの病を発症した方を、身内の恥として「座敷牢」にいれることを法で認めた、ということだ。
 患者の受け皿となる施設がなかったことが大きいが、精神医学の父とされる呉秀三東大医学部教授の医師が1918年に「(病という不幸と)この邦に生まれたるの不幸を重ぬるもの」と指摘しているように、身内の恥という考え方が日本に根強くあるのは、法と世間がシンクロしているからだと、わたしはハンセン病と同じ構造をここに感じる。
 戦争に突き進むときには、生産人でないこと、戦力にならないことは役に立たないとして、国家が自らに都合のよい法律を施行して、人権侵害を堂々と侵すのだ。
 1950年、本土では精神衛生法が施行され、私宅監置は禁止となる。
 しかし、沖縄では1972年の復帰まで続き、「沖縄に生まれたという三重の不幸を背負っている」状態が看過された…。
 沖縄では精神病の患者さんは本土の2倍だという。ハンセン病回復者の方の数もまた多い。
 これは明らかに地上戦が行われた唯一の地が、沖縄であるからだ。
 ハンセン病の隔離政策にまっこうから異を唱えた医師 京大医学部教授の小笠原登の指摘によれば、栄養状態、体質が大きく発症に関係しているという。
 戦後、ハンセン病、さらにはマラリアなどの感染症は、極度の栄養失調と衛生面の悪化のみられただろう沖縄で病を多く発症させ、抵抗力のない者の命をうばった。
 戦争によるトラウマが帰還兵のこころを蝕むこと、兵士でなくとも戦争体験が、発症と関わることは、蟻塚亮二先生も述べておられる。
 ハンセン病も、精神疾患も、感染症も、戦争の二次被害だとわたしは思う。
 文化庁が映画監督と遺族、当事者同士で話し合え、それまでは上映を見合わせる、というのは、フォーラムでも述べられていたが、「文化庁の意図⁉️」かと勘ぐりたくもなる。私宅監置という制度に対する検証をすべきなのに、その問題から目をそらさせようというのは、問題を矮小化しているのでは⁉️と首を傾げたくなる。
 いつも、そうなのだ。
 国家が自己検証を棚にあげ、住民同士で対立させようとする、そのやり方をまた、(辺野古とまさに同じく)ここで見る思いがして、情けない気持ちになった。
 また、自身が精神病院に入院した経験者で人権センターの活動をしている登壇者の方は、1950年以降は、「社会的入院」という問題があると指摘した。
 本人の許諾なく家族が認めれば入院させる、あるいは退院させない、というのである。
 症状が収まっても仕事ができない、家で暮らせない、家族の受け入れがない、などの理由で、いわば病院に監禁されたまま、ということなのだ。
 本土の許諾なく、というのがコワイ。
 知人は、いきなり羽交い締めにされて病院に入院させられたことのショックを語ってくれたとき、涙ぐんでいた…。ほかの方は、目が覚めたら、病院のベッドに縛りつけられていて「なにかわたし、悪いことしたの?」と思った、と。
 病院でのこれらの対応は、父が心臓弁膜症で救急搬送され、大学病院入院中、ベッドに両手、お腹をくくりつけられていた「拘束」をおもいださせる。
 95才の元日本軍兵士である頑健だった父が、ナースコールをせず?忙しい看護師がなかなか来ないので自分でトイレに行こうとした、それだけで拘束されたのだ。
 拘束を解いてくれるよう主治医に頼むとき、わたしはハンセン病回復者のかたがたが、みな一様に隔離によって自由を奪われたつらさを語っていた、と述べた。
 若い医師は察しがよく、翌日拘束を解かれた父は、わたしにスケッチブックとクレヨンをもってきてくれと言った。
 こころの傷を癒すように、サンルームから大磯の海を、緑の山を描いた。
 病院の廊下を描いた絵もあった。
 廊下の先に病室があり、そこは紫色がかった色で暗い影になっていた…。
 今日は、拙著『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』の主人公の恋人から「アンダンスーを送った」と電話があった。
 数ヶ月前、転倒して動けないとSOSコールがあり、わたしはあわてて介護認定のため市役所に連絡をとったのだが、足腰の痛みもいまは落ち着いている、とうれしい報告があったのである。
 わたしの場合は、出版にあたり、また出版後、彼女が当事者のまわりの人たちの意識を「いまは時代が変わった、偏見をもたないで受け止めてあげよう」という方向に自身が行為で示し働きかけてくれたことで、ずいぶん助かった、といまにして思う。書かせてもらった、という意識がわたしにはある。
 しかし、出版後、当事者がカミングアウトして新しい人生を歩き始めようとすることに反対する遠い親戚もあらわれ、なかなかシリアスな、補償金をめぐる周囲のやっかみもあって、予測できない成り行きにも直面した。
 フォーラム登壇者の「津久井やまゆり園事件を考え続ける会」の方は、出版後に沖縄での講演会でわたしが話した内容と同じことを言っていた。
「世間、というのは、わたしたち自身なんです」
 その世間の意識は、法によってつくられがちだ。世間を変えていくには、法を、国家が自己検証してみせなくては。
 家族同士、家族と表現者だけの問題にするのは問題のすり替えであり、矮小化であり、家族を責めたり争いあう状況、対立し合う状況を作るのは、卑怯というものだ。
 世間の偏見となる法をつくったのだから、世間の意識を変えるための努力を国が示してほしい、と切に願う。
4人、立っている人の画像のようです
 
 
 
鈴木 雅子、山上 博信、他10人
 
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