災い転じて福となす。

 平成は、災害の多い時代だった。

2018年9月の台風によって、二宮にある実家の父親のアトリエにいたる階段の天井内壁が崩落して、はじめてわたしは、被災者が感じたであろう恐怖や不安のほんの一端を感じ取ることができた。

 この台風のあと、沖縄に行っていたため、発見が10月になったのだが、もう日も落ちた三階の階段上に、バケモノがのたうちまわっているように断熱材が這っているのをみたときは、仰天した。白い壁の破片がバラバラと足元に落ちている。

 地元の建築会社に連絡して工務店を紹介してもらい、翌日には見積もりということで来てもらったのだが、見積もりが出るまでが、長かった。屋根にのぼらないと正確な判断ができない、しかもそのための足場を組むと20万から30万円を自己負担しなくては、ということで、なかなか数字がでなかった。

 全労災の申請のためにも、早く見積もりを出さなくては、しかし、このままにしておくのも見るだに怖ろしい・・。

 年末、大磯にある父の菩提寺 楊谷寺で三千仏法要という儀式があり、三日間、住職と檀家の有志が、三千の仏の名を唱えながら五体投地を行うという法会をふらりとのぞいてみた。なにかを求める気持ちがあったのかもしれない。

 顔を出したのは最終日で、墓参りの後だったが、もうこれが最後ですから、とすすめられるままに、本堂にあがって数人の方々と住職に習って見様見真似で、大声で仏の名を読み上げつつ五体投地を繰り返す。

 十数回で、もう脚がつらくなってくる。しばらく正座したまま、形だけの五体投地をして、また立ち上がっては座って、という五体投地を続け・・、気が付くと、脚はがくがくになっているのだが、声を出し身体を動かし同じ動作を続けることで、不思議な意識状態になる一瞬があった。これをメンタルフルネスというのかもしれない。どうしたらいいのだろうかという迷いや悩みや不安といったものから、一瞬でも離れこころを自由に解き放つ時間。一歩いや半歩、前に踏み出せたような感覚が確かにあった。

 三日間続けて参加したのは、若い女性であった。

 終わった後、駅で会うと、もう脚ががくがくになっているのが見て取れた。ホームへの階段を降りるのがつらそうであった。それでも毎年参加しているそうで、これから柏まで帰るのだと聞いて、先ほど松戸から来たわたしは、その長い道のりを思って頭が下がった。隣駅の実家に宿泊を勧めてみたが、「いや、明日のほうがきついから、いま帰ったほうが」というのである。

 そして、二宮の実家に向かったわたしは、自分でも驚いたことに、火事場の馬鹿力を発揮して、手を付けずにいた三階階段の断熱材に立ち向かった。ばらばらと落ちている天井の破片を大きなものから集め、断熱材をくるくると巻き、ごみ袋に6

個にもなる破砕ごみをまとめた。

 脚はもうそのときから、がくがくしていた。しかし、脚は痛いがこころは軽い。

 奇妙な高揚感と、不思議と軽いこころと身体。これは、三千仏法会に、ほんの半日参加しただけで得られたものだった。三日間おこなった彼女は、いったいどんな奇跡を自分にみいだしたことだろうか。

 さて、年が明け、伊豆にいるいとこたちが三階の片づけを手伝いに来てくれた。ひとりは被害の現場検証の立ち合いの経験があり、家の中からだけでなく、裏山から屋根をみたりして、いろいろ教えてくれた。家の裏が山の崖になっており、三階建て住宅の屋根に上らない限り、決定的なことはわからない。しかし、崖に沿って下から駆け上った暴風によって起こったものではないかと推測される屋根の隙間を、目視でみつけてくれたのだった。

 そして、さらなる大発見があった。

 なんと「噫、牡丹江よ!」と書かれた80号のエスキースを発見してくれたのだ。

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カーキ色の『噫、牡丹江よ!』

 おそらく、120号の青の『噫、牡丹江よ!』より前に描きだした絵であろう。

カーキ色の画面には、一列に整列する兵士たちの前を逃げ惑う母子の姿が描かれている。衝撃的だった。生々しい恐怖感が迫ってくるようだった。兵士はロシア兵なのか日本兵なのか、武器をもたずに直立不動で整然と並んでいるのに比して、その前をこけつまろびつ逃げる母子の姿には緊迫感がみなぎっている・・。

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『噫、牡丹江よ!』と右上に記してある。

 この絵をかいている途中でなにか心境の変化があったのか、おそらく父はエスキースのままの絵をおいて、あの青一色の、鎮魂の祈りに満ちた『噫、牡丹江よ!』を描いたのだった。

 これは、重要だ!

 これによって、戦争体験画『噫、牡丹江よ!』は深い意味を持つ。 

 その実感がわたしを貫き、ふたりのいとこたちの前で一人興奮していた。

 夕方になっていたため、いい写真は撮れなかったが、庭に絵をおいて撮影し、あとで友人の鶴岡真弓にメールで送ると「よくぞ、青に至りました」と言ってくれた。

 そうなのだ、不安、おそれ、恨みといったネガティブな感情を昇華させ、沈静させ、聖母子像にも似た母子像を一面ブルーの中に描いたことで、そこには失われた幼い命、傷ついた魂への鎮魂の祈りが込められる・・。

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青の『噫、牡丹江よ!』

 この2枚を並べて見てみたい。

 展示して遠くから見てみたい。そんな思いがわいてきたのだった。

 そして、新宿住友ビルの朝日カルチャーセンターで、シスター鈴木秀子先生と禅僧 野口法蔵さんの講演会があった日のこと。示唆に富んだ話を聞いたあと、ふとこのビルに、平和祈念展示資料館があることを思い出したのだ。

 たしか二宮で山本義一遺作展をはじめておこなったとき、シベリア抑留者であったという方が、ぜひ一度行ってみるようにと教えてくれたのだった。

 ふらりと行って、戦争の爪痕を生々しく伝える遺品や資料を見て回った。そこには抑留者たちが描いた絵も展示してあった。アンケートに答えると、その後イベントのお知らせが送られてきた。なにかに導かれるように、また行ってみようという思いがわいてきたのだった。

 そして3月。シスター鈴木秀子先生のワークショップが、南紀白浜で行われることになり、シスターにこのことを伝えんがため、参加したのである。

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 ワークで、「岐路に立っているとき、思いを巡らして、何が起こっているのか、何ができるのかを考える・・、」というシスターのことばが心に残った。

 橋の下に寝泊まりしている、(みんなのために尽くして豊かだった人生が変わってしまった)女性に、旅人がバラをそっと渡すと、いずこかへ立ち去った・・。という話を聞いて、クレヨン画を描くことになった。 

 それに先立つワークでたくさんの名画の絵ハガキのなかから選ぶという段になって、まるでタロットカードのように引き当てたのが、風神雷神の絵だったことも、偶然ではないように思われた。

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 風神の起こす台風ですら、自然からのたまわりもの。

 よし、災い転じて福となす、である❗

 バラの香りが、私の願いを風神の風にのって届け、かならず念じたことは実現化されるだろう。

 シスターがおっしゃっていたように、ありがとうありがとう!とそれを「もう成った」こととして神にお礼を言おう!33回、いや99回!お礼を述べよう。

 そうして描いたわたしクレヨン画は、8つの願いを、いや、願いが成就したことを感謝して、描いた絵だった。

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 ワークのあと、シスターに「平和祈念資料館に頼んでみようと思います」と言うと、「お祈りで応援していますよ」と言ってくださった。そのことばを聞けて、シスターに報告できて、もうそれだけで南紀白浜に来たかいがあったと思った。白浜の海と夕焼けの豊潤な空、足を延ばした南方熊楠館、チラ見したアドベンチャーワールドのパンダ。駆け足であっても、こころは軽い。義母の検査のため、一足先に帰らねばならなかったけれど。

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 ホテル前の海の夕焼けは、足湯に映り込む空の色が呼応して水鏡と化し、100人以上の食事にもかかわらず、夕食は手が込んでいておいしかった。

 食事の前に、引き当てたピンクの紙に書かれたことばは、今も手帳にはさんである。

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「人には『いい人でいたい』本能がある』というものだった。

 四人で膳を囲み、それぞれひきあてた言葉について語るのだが、わたしは以前、眞子様が行って評判になったブータン展でみた光景について話した。会場には、「幸福度世界一」のブータンのことわざ、標語が垂れ幕のように下がっていて、若い女性たちが熱心にその言葉の書かれた幕を撮影していた。

「悪の道は険しい、善の道はたやすい」。そして急峻な山の崖を行く道の絵が描かれてあった。

 それを見てわたしは、へえ~、善の道のほうが楽なんだ、意外!と思ったのだが、ちょうど悪ぶってみたい年頃の女の子が、このことばにストレートに反応していることに結構、感動したものだった・・。

 人には「いい人でいたい」本能がある、というその言葉に、わたしは内心ドキッとしていた。いろいろあって人を疑いそうなときにも、友に性悪説を唱えられて、甘い!と言われたときも、いや、わたしはいい人なんです!と大声を出して、自己肯定したときのことを思い出してもいた。あの日、わたしは自分なりに重要な崖路を通るとき、悪の道でなく、善のほうへ至る道を選んでいたのだった・・。

 クサイ、とかダサイ、とかではなく堂々と、「善の道を通ったほうが楽なんだ」と思えるなら、そのほうが自分にとって楽になるなら、それでいいではないか。

 いま目の前のホテルの膳に、ピンクの、その紙59番が置いてある。

 参加した方の中には、信じてきた人に裏切られて大変な目にあった時にも、その相手を憎まず、無理にでも感謝の言葉を念じ続けたいう体験を語った人もいた。シスターも憎みそうになる相手に感謝の言葉で祈り続けることを、教えてくれた。そのことによって、不思議にも自分の心だけでなく、相手の心すら変わっていくのだと・・。

 わたしは晴れ晴れとした、ちょっと照れ臭いような気持になって、ホテルの前に広がる夕景を見ようと、一緒になった人たちと戸外に出た。

 シスターのまわりをみんなが取り囲み、記念に、と撮影している。

 チャンス!わたしたちも、ちゃっかりご一緒に撮影させていただいた。この日のことを忘れないために。

 

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ホテル前の海と夕焼け

 

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 そして、3月。春休みのイベントとして語り部のお話会が平和祈念展示資料館で行われた。学芸員の方の解説で館内をまわったとき、その若い女性が「遺族の方が来てくれて、そんなとき、ああ学芸員の仕事みょうりに尽きるな、自分はいい仕事をさせていただいているなあ、と思うんです。あ、私の話はいいとして・・」と言ったのだ。

 その言葉を聞いて、わたしはこんな若い方が、戦争体験もない若者が、それを学び伝えようとしてくれていること、展示を見た人たち、子どもたちに伝えようとしてくれていることにこころ打たれたのだった。春休みとあって家族連れや外国の方を親にもつお子さんたちが熱心に説明を聞いている姿にも、みとれた。そうか、こうして、モノが語る言葉がきちんと伝えられるなら・・。絵から伝わる声が届けられるなら・・。

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 学芸員の方の話が終わると、私は彼女に、父の絵の写真を見てもらおうと声をかけていた。

 それから、4か月後の7月、令和になって、ようやくその夢が現実化する。

 長い時間がたったようにわたしにはおもえるのだが、数ヶ月で決まったのは、奇跡的であろう。

 正式に二枚の絵の収蔵のオーケーがでて、消費税が上がる10月までに、燻蒸のため修復センターに搬入、と決まった。搬送費や額代はこちらの負担だが、実際の搬送は、もうしばらくあとかと思い込んでいただけに、急展開の成り行きである。そして、収蔵されたあと、いつ展示されるかはわからないという。経費の捻出も必要になるけれども、それならまず、2枚の絵を二宮のお弟子さんたち、お世話になった方々に見てもらってから、という思いがわいた。

 第二回まで遺作展を行った二宮町生涯学習センター「ラディアン」に、日程を確認して、折しも3ヶ月前のギャラリー抽選会では、不思議なくらいすんなりとライバルをおさえてよき日が当たり、9月19日(木)から23日(月・祝)までの展示がキープできた。

 なんと展示の翌日に搬送という、タタタッと音の聞こえて来そうな段取りになる。

 そのころ、はじめて夢の中に父親が出てきたのもなにか不思議だった。

 わたしが展示のことであれこれ迷い悩み、考えていたからかもしれない。

 夢の中で、父親は駅の改札まで送ってきてくれた。

 わたしが「お父さん、あの絵、描いたでしょ、『牡丹江よ!』のエスキースが出てきたよ」というと、「絵は頼んだよ」と珍しく、わたしに頼んだのである。

 そして渡されたのが、あの実家の三階の階段を上ったところにおいてあるザイル。絵を運び出すのに、つりさげるためにおいてある黄色と黒の工事用のものだった。

 しかし、わたしが駅の改札を通り、構内のトイレから出て、置いてあったザイルを見ると、もっと軽いプラスティック製の荷造り紐に変わっていた・・。

 6月に聖心女子大学の鈴木秀子先生の『文学と人生』の講義があったときは、実はまだ正式決定ではなかったのだが、わたしは南紀白浜で学んだことを実践すべく、もうその展示が成ったこととして、国際コミュニオン学会の分かち合い会でも、その絵を描いた。絵ハガキも作ってしまって、シスターに渡しながら「まだ、正式に決まったわけではないのでわからないのですが・・、」と言いかけると、シスターは「大丈夫!」とおっしゃって手を握ってくださったのだ。

 わたしはハガキをとめていたクリップを手にしたままシスターの手のあたたかさを感じて、足が震えるようだったのを覚えている。自分の手が縮んで冷え切っていたのが恥ずかしいほど、シスターの手のひらはあたたかかった。

 いまはまだ、現実にはなってはいないのだけど、いいのかしら?という、根強く残っていた小さな不安が、シスターがああいってくださったのだから大丈夫、という確信に変わっていく予感。しかし、見切り発車にならないのか、不遜ではないか、わきおこってくる不安におののきながら、そのたびにシスターの言葉を反芻しているうちに、それは、まさに自信になっていった・・。

 それが、夏休み前の最後の授業であった。次の授業は10月である。

 だから、シスターにお知らせすることはできないけれども、お渡ししたハガキはちょっと日にちが間違っていたかもしれないですが、ほんとうのことになりました!

 ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!

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 いつか朝日カルチャーセンターで、野口法蔵さんとシスターがおっしゃっていたように、これが脳をだまして現実化させる、脳科学でも実証されている「祈りの力」なのかもしれないと思った。

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山本義一遺作展vol.3『二枚の戦争体験画と二宮の風景画—闇と光』展ハガキ