ロシアのウクライナ侵攻で、父の気持ちがわかった、気がした。

 2022年2月24日にはじまったロシアのウクライナ侵攻は、あまりにも唐突だった。

 2月28日になっても侵攻は続き、首都キエフは持ちこたえている。

 しかし、ウクライナの大統領が市民に徹底抗戦を呼びかけ、首都での戦いに備えて男性は出国を禁止されているため、ポーランドへ出国するウクライナ人女性と子どもたち、お年寄りの姿が報じられている。

 これは、まさに父 山本義一が描いた満洲での戦争体験を描いた『噫、牡丹江よ!』の世界ではないか。

 それも、カーキ色の『噫、牡丹江よ!』のエスキースの世界だ。

 この絵については、先日、その絵のモティーフになったのではないかと思われるイラク戦争の新聞記事を二宮の実家の父のアトリエでみつけたので、またあらためて書きたいと思っているが、エスキースは、ソ連軍が侵攻し命からがら逃げていく子どもとたちと母親、その背景には武器をもたずに整然と直立不動で立っている兵士たちの姿—―、というどこか異様な感じのする衝撃的な絵だ。

 兵士たちの顔つきと身長からソ連兵かと思えるのだが、それにしては武器をもっていないし、命令で整列しているようでもあり、前を行く女性と子どもたちをなすすべもなく見ている、という不思議な構図である。

 西新宿の平和祈念展示資料館に収蔵されることになって、学芸員の方と話したときには、この兵士たちは日本兵で、侵攻してきたソ連兵に武器放棄を命じられて銃をもたず、まさにこれからシベリア行の列車にのせられていくところではないか、ということだった。

 この絵がどんなシーンであるのか、本人に聞いていなかったので、真相はわからない。

 しかし、いま新聞やテレビ、SNSで報じられている、ウクライナの市民の姿に、この絵がどうしても重なってくる。

 そして、思ったのだ。

 ああ、父は、イラク戦争の報道を見て、いま、このわたしがそうであるように、「ちむわさわさ~して」、つまり胸が苦しくなるような思いで戦争体験をよびさまされ、胸の奥底に抑圧したままであった記憶に、60年以上たって向きあうことにしたのだ、と。

 いや、向き合うも何も、いま自分になにができるか、戦争を体験し生き延びて80代になった自分がなにかを伝えなくてはならない、という衝動に突き動かされるようにして絵筆をとったのではないだろうか、と。

 それは、このわたしが父の描いた二枚の戦争体験画『噫、牡丹江よ!』を、その来歴を、父の軍歴を、父の人生を、知ってしまったという『体験』から、このように久しぶりにブログを書こうと思ったり、Facebookに『噫、牡丹江よ!』の絵をアップしたりしたことと、また重なってくる・・。

 父の戦争体験を知った今のわたしと、知らなかったわたしとでは、ロシアのウクライナ侵攻に対する思いの、温度がまったく違うのだ。

 もちろん、父は絵を描こうというその衝動の後、冷静に構図を考えるなかで、どのように自分のいいたいことを「表現」するか、試行錯誤したかもしれない。しかし、複数のエスキースは存在せず、残っているのは鉛筆で描いた母子の姿の部分デッサン2枚のみだ。

 そして、このカーキ色の『噫、牡丹江よ!』をエスキースのまま、いわば描きかけにしたまま、まったく異なるモティーフである青の『噫、牡丹江よ!』の120号のカンバスにあらたに向かったのだろう。

 カーキ色の『噫、牡丹江よ!』には、静と動、逃げる母子と動かぬ兵、その対比から異様なまでの緊迫感が伝わってくる。

 唐突に戦争がはじまり、状況が一変し、こけつまろびつ逃げまどう市民と、手も足も出ない(日ソどちらかはわからないが)兵士という図は、戦争の実相を思わせる。

 ソ連に攻撃されるウクライナの母子たち、お年寄りたち、市民のことが案じられて、こころがざわざわとしている、春・・。

 昨日は父の誕生日であった。

 生きていれば102歳。

 父は後生で、ソ連ウクライナ侵攻をみて、どう思っているのか。

 祈らずにいられない。

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カーキ色の『噫、牡丹江よ!』
(#平和祈念展示資料館