山本義一遺作展二宮ラディアン展示を終えて その1

 10月6日から10月11日まで神奈川県中郡二宮町生涯学習センターでの『山本義一遺作展 戦争体験画と湘南の風景画――闇と光』展示が無事に終了した。
 それまでにない大反響の展示であった。
 山本義一の暮らしていた地元二宮町の方々に、二宮の風景画がとりわけ喜んでいただけたことは、正直言って予想外の、おもいがけない福音であった。
 毎日散歩する地元の風景が絵になっているのを見て、「あっ吾妻橋!」、「大応寺だ!このお寺の幼稚園に行っていたの」と、声をあげて喜んでくださる方、緑の風景画に涙がでてきちゃうと言ってくださる方、感動したとメモを残してくださる方、毎日のようにいらしてくださり話し込んでくださる方・・。
 戦争体験画『噫、牡丹江よ!』は、ここ二宮でも深い思いで受け止めてもらえたと実感できるが、地元の風景画に対するみなさまの反応は、想像以上のものがあった。
 そのことはおいおい紹介していきたい。
 それにしても、手違いでホームページに二宮展示のチラシのpdfをアップしておかなかったのは、ほんとうに残念である。沖縄の白仁さんから問い合わせがあったのにもかかわらずwifiがとんでいないため、メールも開けず、情報を公開できていなかった。
  いそぎ、冊子用の本文とチラシをおくればせながら、このブログにて紹介したいと思う。

 

ラディアン展示に寄せて

昨年2014年11月、95歳で永眠した山本義一は、1988年にそれまで住んでいた保谷市(現西東京市)より、神奈川県中郡二宮町に移り住みました。会社退職後の68歳からの移住です。娘ふたりも嫁ぎ、老後はふるさと伊豆に似た湘南の地で、大好きな絵を描いて暮らそうと思ったのでしょう。
二宮に移住したときに作成した転居ハガキには「湘南の光と風に魅かれて」という一文があります。移住後は、毎年ときには年2回、茅ケ崎やここラディアンで油彩画の展示をさせていただいておりましたが、1995年の個展のお知らせハガキには「湘南の清澄・芳醇な風景に魅せられて」というタイトルがつけられております。遺された膨大な量の油絵は風景画が多く、いかに義一が二宮の海と山、そして光に魅力を感じていたかがわかります。
自宅の2階ベランダからは富士山や海が見え、季節を間近に感じることができます。近くの吾妻山にのぼって眺望を堪能し、カンバスを広げ、お仲間とあちこちに絵を描きに行き、10代から始めた油絵三昧の日々を送りました。
移住して27年、95歳の長寿を全うできたのも、まさに温暖で環境のすばらしい「長寿の町」二宮のおかげではないかと思っております。
義一は、20歳から29歳まで9年間、陸軍兵士として満州に滞在しました。ノモンハン事件にも参加し、悲惨な戦闘を体験したことでしょう。敗戦後はシベリア抑留を免れ、ソ連兵から逃延びて、同郷の方の家などにかくまってもらったこともあったそうです。現地除隊し、法政大学夜間部に入学、日本企業「生活必需品株式会社」の社員にもなり、 写真入りの身分証ものこっております。
ようやく9年後に満洲から引揚船に乗って博多港に到着し、実家のある伊豆にたどりつ いたときの所持品はリュック一つ、所持金は千円でした。
この間の戦争体験については、もっと聞いておけばよかったと思います。
苛烈な戦いをくぐり抜けてきた戦争体験者がそうであるように、あまり多くを話しませんでした。しかし、2003年のイラク戦の頃、それまでの絵とは画風も全く異なる120号の大きな絵を描きだしました。テレビ報道を見て、なにか甦るものがあったのかもしれません。
ベールをかぶったイラクの女たちを描いたのかと尋ねると「牡丹江で引揚船を待つ人々を描いた」とだけ語りました。のちに、『噫!牡丹江よ!』と白い文字がかかれてありました。誤解されないように、とのことだったかもしれません。
  これが今回展示させていただく、生涯たった1枚だけの戦争体験画です。
この絵はほかの絵とはまったく画風も異なる独特のものです。
青の色彩の中に、引揚船を待つ人々の行列がぼうっと浮かび上がっています。
左上には三日月。船に乗り込むために徹夜で並ぶ行列から外れた母子が、7、8組。もしかしたらもっといるかもしれません。絵を見るたびに見えてくるもの、浮かび上がってくるものがあるように思います。
中央の女は赤子に乳を与えているのですが、何も食べていない母の乳は出ず、赤ん坊はすでに息絶えているのかもしれません。行列に加わらなければ船に乗りこめない。しかし、赤ん坊が泣き、疲れ切った幼子はぐずり出す。子どもを連れた母親は、行列から離れてうずくまり、道端で乳を与え、あやし、子どもたちを守るように座りこんでいるしかありませんでした・・・。
戦争によっていちばん被害をこうむるのは、体力のない者たちです。抵抗力のない、弱き者たちの命がまず奪われます。子どもを中国の方に預けて離れ離れになり帰国せざるをえない親もいたことでしょう。
過酷な戦闘を経験した義一は、しかし戦う兵士としての視点ではなく、庶民としての視点で戦争を描こうとしました。戦争というものの実相を、母子の姿を描くことで表現しようとしたのではないでしょうか。
男の視点から、女と子どもへの、まなざしの反転――。
男たちが悲惨な戦闘を潜り抜けたのちに気が付くと、女と子どもたちは生きのびるための生死を分かつ行列からもとりのこされてしまう・・・。
そんな戦争がひきおこす、戦争の二次被害、そしてこころへの深い傷――。
義一は癒しとしての風景画、いわば『光』を描くことで、こころを癒し、ようやく戦争画という名の『闇』に向き合うことができたのかもしれません。
しかし、闇に光をあてれば、それは闇ではありませんでした。
おそらく、母子の姿の向こうにみえたのは、愛という希望の光ではないでしょうか。母に守られている幼子の顔は、おだやかな童子のお地蔵さんのようですらあります。
そして、戦争で失われた多くのいのちへの鎮魂の祈りが舞い降りてくる・・・。
戦後70年の節目の年に、義一の一周忌を前に、この二宮で湘南の風景画と戦争体験画を展示させていただけますことに、こころより感謝いたしております。 
   
 山本義一遺族 一同                                     2015年10月6日