那覇市ぶんかテンブス館展示を終えて

 琉球新報社展示の初日に、一般社団法人離島応援団の白仁昇さんが朝いちばんでお花を持ってきてくださった。

 実は前日の展示準備のあとで、宴席に呼ばれると、のちに白仁引越しチームとでもいうべきお仲間たちがいて、そのなかに写真集『波照間島』を出された写真家アウエハントさんの妻・静子さんがいらした。写真集は八重山を取材する中で目にしたことはあったが、所有してはいなかったので、静子さんがくださった本はずしりと胸に響いた。もう一冊『胎児との対話』という本も、あとあととてもこころにしみることになる。
 さて、最終日の撤収、および那覇市ぶんかテンブス館への搬送は、なんと白仁さんが声をかけてくれたファミリーであった。山本義一遺作展を見たかったのだが、最終日の展示時間に間に合わないので、手伝ってくださるという伊藤麻由子さん、夫は書浪人、善隆さん、そして娘の梯梧ちゃん。ボランティアで家族総出で梱包を手伝ってくれるというのだ。
 会場には夕方からアウエハント静子さんがいらしてくれて、その時間は来訪者もなくゆっくりと時間をかけて、亡くなったご主人の思い出を聞くことができた。その話はとても興味深く、おりしもギャラリーの窓から満月に向かってふくらみつつある月が、夜になるのをまちかねて、わたしたちが話しているのをのぞきこんでいる・・・。
 そこへ、登場した一家も静子さんとはもちろん気心のわかった白仁チーム。
 ユンタクしながら、梱包はあっという間に終わった。
 なにしろ書家の善隆氏は額を先に手作りするというから、絵画の扱い、梱包は慣れている。今回は船便ではなく赤帽さんに頼むので、簡単な包装程度でいいと思っていたのだが、実に手際よくあっという間にかつ丁寧に撤収と梱包作業は終わった。
 そのあいだに梯梧ちゃんが絵を箱にしまい、シーツをマントにして走りまわる。
「アッ、お月さまが見ているよ」
 梯梧ちゃんも月と目があった夜。
 なんとも楽しい一夜が終わった。
 翌日の朝早くから展示準備にいらしてくれたのは、白仁さんご本人であった。
 この展示は、新聞で告知はしてもらえたのだが、急なことではたして見に来てくださる方がいるだろうか。

 夕方になると雨が降り出し、台風が近づいているため風も強くなってきた。
 6時をすぎると、わたしのなかに軽い諦めの気持ちがわいてきた。
 昨日の引揚船で帰国したという女性は、妹さんを連れてきてくれるだろうか。
 やっぱりこの展示は無駄だったのか・・。
 すると、8時近くになって、なんと彼女が雨の中、来てくださったのである。
 約束通り、妹さんに『噫、牡丹江よ!』をみせるために。
 ああ、よかった、これで延長展示をしたかいがあった。
 まさにこのために、またお母さんに会いたいということばに揺り動かされるようにして、展示を延長したのであったから。
 いただいたご寄付をまさにそのために活用したのであったから。
 『噫、牡丹江よ!』を前にして、お姉さんが妹さんに、満州での思い出を話し出す。
 それはお母さまから何度も聞いていた話であったろうが、当時2歳の妹さんはまったく知らないことばかりであった。
 そこへ、昼間、八重山料理の店『潭亭』の宮城礼子さんとともに立ち寄った沖縄第一ホテルの島袋ママが見に来てくださった。わたしは梱包用の養生テープを買うために、礼子さんと一銀通りの文房具屋に行ったのだが、そのすぐそばに第一ホテルがあったのである。島袋ママは、わたしと「コーラルウエイ」のご縁を結んでくれた方である。
 ママは台湾からの引揚者ということで、ふたりの姉妹とともに戦争の話をはじめる。 わたしは彼女たちのユンタクを、いやユンタクと呼ぶにはあまりに深いお話をじっくりと「噫、牡丹江よ!」を前に聞くことができた。
 ほんとうに不思議な、そして貴重で濃密な時間を、たしかにわたしたちは共有できたのだった。
 そして、最終日の撤収は、なんとまた白仁引越しチームのお世話になった。
 アウエハント静子さん、白仁ご夫妻、そして館長の奥住さん、スタッフの方。
 さらにテンブス館のカフェには、かつて竹富島に住んでいた知人の女性がいて、勤め先のお菓子御殿の紫芋パイをもってきてくれた。彼女の同僚の女性も展示をみてくださり、手作りの炊き込みご飯のおにぎり(ジューシー)を差し入れてくれて、手伝いにも顔を出してくださった。
 多くの方々のお力添えで、琉球新報社および那覇市ぶんかてんぶす館での『山本義一遺作展』は、こうして無事に幕を閉じたのであった。
 本当に、展示の現場では予期しないことが起こる。
 たくさんの方々の魂と響きあう貴重な体験を、ともに分かち合うことができる。
 みなさま、ほんとうにありがとうございました。
 こころより、感謝いたしております。
                                吉江真理子 拝