父の遺したアフガニスタンの記事の切り抜き。それが語るものとは・・。

 コロナの終息がなかなか見えない。

 父 山本義一の二枚の戦争体験画『噫、牡丹江よ!』はおかげさまで平和祈念展示資料館に収蔵が決まって、修復も終わった。

 資料館に提出するための父の軍歴調査をしているうちに、6人兄弟(長男は夭逝)の軍歴をも次々に調べることになった。県からの軍歴調査書類をもとに、市谷の防衛研究所史料閲覧室に通って調べるのだが、あいつぐ緊急事態宣言の延長で閉館が続き、あと少し、というところで止まっている。

 できれば、昨年亡くなった父の弟、細井正治さんの所属軍隊と末の弟、横山兵衛さんのことを調べたいのだが、県には資料が残っていなかった。山本家から婿養子に行き姓が変わったこともあるのだろうか。細井さんにはご本人の口から聞けたことの裏付けがほしいと思っている。

 そんなわけで空欄はあるものの、山本兄弟の軍歴年表はなんとか仕上がりつつある。

 コロナのため沖縄には昨年から行っていないのだから、時間はあるはずなのだが、県をまたいでの移動もできにくい今、なかなか人に会っての調査ははかどらない・・。父の命日11月5日までにはなんとか一つの形を、と思ってはいるのだけれど。

 しかし、先日、新たな発見があった。

 お盆の前に二宮の実家に行き、父のアトリエに長い間つるしてあった新聞の切り抜きに目が留まった。あっ、これは・・、カーキ色の『噫、牡丹江よ!』のエスキースを思わせる構図。

 声にならないほど驚いたが、そこにそのまま置いておくのも・・、と思い、持ち帰った。

 新聞記事のタイトルは「戦火のはざま、子供たちは」というもので、たらしには「ロバを引いた少女がタリバンと敵対する北部同盟の隊列の前を歩いていく」とある。

 アフガニスタン タカールのダシュテカラという場所でとった写真であった。

 そして、お盆明けの8月16日。

 なんと、アフガニスタンタリバン政権になった、というニュース。

 2021年4月に、売電大統領はすべての米軍は9.11までに撤退すると発表していたが、8月6日にタリバンが南部を制圧、13日南部4州都を、14日には北部、15日に首都カブールを掌握したという。お盆の間に一気にタリバンが動いていたのであった。

 タリバンは、2012年にはマララさんを襲撃し、少女の教育を認めないなど、世界から市民に対する抑圧や人権活動家の安否を危惧する声があがっていた。

 米軍の撤退決定に合わせて、アメリカ人や韓国大使館関係者などを乗せた米軍機にアフガニスタン市民が群がり、少年が飛行機から振り落とされた、という報道もあった。

 8月30日までの撤退を、延長は認めないというタリバン。26日にはカブールの空港付近で連続爆破テロがあり、米軍兵士や市民100人以上が亡くなったという。

 はたして、父の遺した新聞記事はなにを示しているのだろうか。

 できれば、その新聞の現物をみたいと国会図書館に聞いてみたが、緊急事態宣言下で予約制、しかもマイクロフィルムでしか見られないという。記事は元原稿はカラーなのだが、モノクロになってしまう。

 そこで、20日、柏の映画館で戦争映画『野火』と『カウラは忘れない』を続けて!見た後、松戸図書館に寄って、縮刷版のコピーをとることができた。

 新聞記事は2001年、平成13年の11月2日金曜日の夕刊。

 父は、アフガニスタンのニュースを見て、自身の戦争体験を思い出し、それを自分なりに表現しようとした・・、そのきっかけとなったのが、この新聞切り抜きなのだろうか。戦争でいちばん苦しむのは、子どもたち、女たちだと、伝えようと思ったのだろうか・・。

 二本の戦争映画の衝撃もなまなましいまま、なにかに導かれるように新聞記事を手にした今日は、なんだか不思議な一日であった・・。

 

 

2021 寒中お見舞い申し上げます!

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 2021年、1月もはや半ばになって、ブログを更新しようとしている・・。

 昨年、2月26日に義母が他界した。

 ちょうどそのころ新型コロナウイルスの流行がいわれはじめていたが、幸いにもまだ1年前の2月は、緩和ケア病棟での家族による看取りもできた。

 看護師さんたちの心遣いに感謝しつつ、交代ではあるが徹夜でつきそい過ごした病院での最期の時間。呼吸が弱くなってはまた振り絞るように「息をふきかえす」ことを何度か繰り返したけれども、明け方に波が引いていくように静かに消えた・・。

 その瞬間、わたしは臨死体験者であるシスター鈴木秀子先生がおっしゃっていたように、大きな白い輝く光に義母が包まれていったことを確信した。

 主治医がまだ来ていないので宿直の医師に死亡診断書を、と看護師さんがおっしゃっていたとき、夜明けの鈍色の空を窓から見ていると、ドクターが部屋に来て頭を垂れた。そうか、義母はドクターの到着を待っていたのだったか・・。

 しかし、そんなふうに思う間もなく、あわただしく部屋を離れ、さきほどまで息をしていた義母とともに葬儀会社の車で葬儀社の霊安室へ。最期につきそってくれた看護師さんが車まで見送ってくれる時、思わず彼女の手に、手を重ねてしまった・・。もちろん看護師さんは手袋をしていたけれども。

 まったく、人が亡くなると、こんなにも短時間でばたばたといろんな、それも重要な決定をしなくてはならないのだとは・・。

 葬儀に先立ち、前日に会場でおくりびとの若い男女のスタッフが、見事な所作で義母のからだをきれいに洗い、持参した黒留袖を着せてくれたときは、感動のあまり脚が震えるほどだった。美しいしぐさ、ひざまずき、うやうやしく丁寧に一連の行為を完璧に成し遂げる姿。白いシャツにベスト姿の彼らには、崇高ななにかが宿っていたようだった。

 ふたりの顔にあらわれていた、聖なる慈愛に満ちた輝く表情を、わたしは忘れないだろう。

 お通夜も、続く葬儀も規模を縮小して行うことにしたが、それでも通夜に群馬から義母のきょうだいや甥や姪がきてくれたのは、ほんとうにありがたいことだった。最期の最後まで、がんばる姿をわたしたちにみせてくれた義母に、あふれんばかりの花束を。

 告別式は、たった4人の、身内だけの見送りだったけれど、それがかえってよかったのではないだろうか・・。

 

 1年たったいま、病院での最期は、まったく異なっている。

 まず、病院や母のいる介護施設には家族が患者に会いに行くことができない。もしくは面会時間を限ってガラスドア越しにしか会えない。

 母の施設に妹が行くとき、先月にはラインでのテレビ電話で母と会うことができたのだが、これはガラス越しと画面越しという二重苦のため、なかなかうまく意思の疎通ができなかった。

 それでも手をふって!と頼むとそれにこたえてくれたので、正直ほっとしたものだ。ハガキも書いて送ってくれるので、文通がいまは唯一のツール。わたしがうつ病のさなかには人に手紙を書くなんてできなかったことを思うと、96歳の母の建脳ぶりに頭が下がる。

 実は、先週末、父のきょうだいのうち、ただひとり元気でいる95歳の叔父が亡くなった。去年の12月の20日ごろに緊急入院したとのことだったのだが、なんとかもう一度会って叔父のそして叔父の兄弟たちの戦争体験を聞きたかったのだが、かなわなかった・・・。

 10月のいとこたちとの柿狩りの時、11月にも会って、話を聞けたことがいまとなっては貴重な僥倖であった。

 静岡に行ったのは、折しもGO TOキャンペーンのさなかだったが、親戚たちのなかには感染爆発している都市部からくるわたしを内心恐れていた方もいらしたことだろう。それは無理もない。

 10月には会えたけれど、11月には会えない方もいた。

 静岡の街やホテル、下田の街にはこちらが心配になるほど観光客があふれていたが、ちょっと裏道の小さな飲食店に入ろうとすると「静岡県在住者以外はお断り」の札があって、それにはへこんだ。おそらく市役所関係の職員らしき人たちが、名札を下げて入っていくのを遠くから見て絶対おいしそうだとわくわくしながら近づいていくと、この札があり、札を前にしてひとり唇をかんだこともあった。

 ホテルのレストランでGO TOキャンペーンを利用してランチビュッフェを頼む客は料理をとりに行くときはマスクを外している、そんな姿に眉をひそめながら、自分が「県外の方、お断り」を飲食店などにいわれるのは疎外感を味わう・・、なんとも矛盾する感情を味わった。

 立場を変えるだけで意識が反転する・・。

 感情にふりまわされると、恐怖からの誹謗中傷、さらには偏見と差別ということにもなりかねないし、わたしたちはハンセン病問題でそれを学んだはずだったのに、社会のなかで立ち位置が 変わるだけで、相手の立場への想像力が消え、社会が分断されていく・・。移動することによって、立場を変えることで、皮肉にも見えてくる。

  ほころびがぽっぽっとたちあらわれていた・・。

 今にして思えば、そんななかでよく、95歳の叔父は会ってくれたものだと思う。叔父もいとこもわたしをこころよく迎えてくれてほんとうにありがたかった。こころから感謝したいと思う。

 正直に言えば、叔父に聞いた話の細部を確認したかったし、防衛研究所や県に問い合わせるためにも所属する軍を知りたかった。

 いまは叔父の冥福を祈り、そして6人、いや7人そろって天国にいる兄弟たちからのメッセージに耳をすませようと思う。

 2月に義母が亡くなり、母の飼い猫みーちゃんも父の命日11月5日に墓参りに行く途中その訃報を知り、わたしは落ち込んだ。年が明けて再会を熱望していた叔父もこの世を去った。

 しかし、いま振り返ってみると沖縄へは一度も行けなかった代わりに、(竹富島のたなどういに行くことはかなわなかったけれども)平和祈念展示資料館に提出する父の軍歴調査から派生して、父の兄弟たちの軍歴調査ができたことは、画期的なことではあった。

 おそらく沖縄へ通っていたら、自分の父親のきょうだいたちの軍歴調査までは手を伸ばす時間が取れなかったかもしれない。自分の身内のことは、かつい後回しになってしまうのは、そう、取材者の性かもしれない。消防士が災害のさなか自分の家族を後回しにするように、といったらお門違いでヒロイックと批判されそうだが、でも、ちょっとそんなところはわたしにもあった。まして親の戦争体験を聞くことは・・。そう、覚悟がいる。

 しかし、コロナのおかげで沖縄に行くことを自粛したわたしは、とうとう自分の内側に意識が向かっていった。

 stay homeをいわれ、不要不急の外出自粛をいわれ、そのおかげで、わたしは自分に連なる先祖たちの物語に少しずつこころを開き、耳をそばだてようとしていったのだった・・。

 それは、不思議な光に導かれて一歩また一歩と足を前に進めると、次々に開いていく扉のようだった。

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コロナ禍のなかで

ブログをごぶさたしているうちに世界はコロナ禍という、今まで全く予期しなかった事態に遭遇。

先日このシマウタキの一年前のブログ「災い転じて福となす」がfacebookに上がっていた。それを読んで、自分で書いた文章に励まされる思いだった。

 わたしの書くものはわたしのためにあったのか・・・。

 まずはそれでいいじゃないか。

島唄の奇跡」もうつ病回復後に読んで、涙を流し、わたしはフリーズしていた感情をとりもどしたのであるから。

 そう、自分で自分の書いたものに癒され、慰められ、励まされるなんて、なんてありがたいことではないか!

 そうつくづく思えたのであった。

 

あけましておめでとうございます❗

 令和2年、1月1日。
 あけましておめでとうございます。f:id:shimautaki:20200101115406j:plain

 おかげさまで、義母の症状もなく、母親も車椅子とはいえ元気でいてくれることに感謝しております。

 年賀状の宛名面に父山本義一の絵画紹介のホームページ、わたしのホームページ「シマウタキ」にアクセスできるQRコードを記しました。f:id:shimautaki:20200101115905p:plainf:id:shimautaki:20200101120009j:plain

 お試しいただければ幸いです❗

 令和2年 元旦

二枚の戦争体験画「ああ、牡丹江よ!」は、平和祈念展示資料館に収蔵が決まりました。感謝いたします❗

 山本義一遺作展vol.3のあと、この秋から冬は忙しかった。
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 おかげさまで、展示翌日には二枚の戦争体験画「ああ、牡丹江よ!」は、赤帽さんの車で無事に調布にある修復工房に届いたとのしらせがあり、ほっとした。f:id:shimautaki:20200103153236j:plain
 誠にありがとうございます。f:id:shimautaki:20191231212054j:plain
 しかし、長い間、二宮の実家にいたので、この後の秋から冬はあっという間にすぎ、令和元年がもう終わろうとしている・・。
 10月は聖心女子大学のシスター鈴木秀子先生の「文学と人生」の授業に出た翌日に、竹富島の「たなどぅい」、種子取祭に行くことになっていたので、国際コミュニオン学会のわかちあい会には参加せずに帰宅した。
 それにしても、竹富島に着いてみれば、たなどぅいの頃の島んちゅの超過密スケジュールに対しては、ただのビジターとしてはなんだか申し訳ないような気持ちになる。
 到着した日の夕方には、各集落ごとに世持オンで舞台稽古を披露するので、その前に行きたいところがあった。
 まっさきに向かったのは、港すぐのところにある「ゆがふ館」。f:id:shimautaki:20200103150827j:plain
 スタッフの阿佐井拓さんの顔を見るまでは安心できない、と自転車を借りようにも、この日はいつもより早く貸し自転車屋さんがしまるというので、必死で借りる店をさがしたが、どこも締め切り。すったもんだのやりとりのあとパンクした民宿のチャリを借りて、引きずるようにしてこぎ、息を切らして日のあるうちにと向かう。f:id:shimautaki:20200101002731j:plain
 拓さんはいた。
 まっさきに顔を見に来た、と言うと、大丈夫ですよ、と瞳をキラキラさせて答える。
 多数の観光客が訪れるコンドイビーチに、RJエステートという沖縄本島の会社がリゾートホテル建設を計画したのである。
 島びとは石垣島から海底をとおって送られてくる水が繁忙期には足りなくなる恐れがあるし、環境保護の観点からの諸問題を理由に、島民総会でホテル建設反対を決めた。しかし、竹富町自体がなんと安易にも計画に許可を出していた、という非常事態である。f:id:shimautaki:20200101003405j:plain
 すでにホテル建設に反対する全国からの7万筆を超える署名は集まっているが、(12月、この署名を竹富島はホテル建設側に提出しようとしたが、受け取らなかった)こんどはなんとホテル建設側が「水不足にはならない、ネット上の「誹謗中傷」記事を削除するよう」求めて、島びと個人を訴えたのである。
(なんと、「美しいコンドイビーチにリゾートホテルを造らないでください」署名を求めるネットキャンペーンは、「Change.org.Japanの「声をあげれば社会は変えられると勇気をくれた署名キャンペーンで、プラネット賞を受賞という快挙となる)
 水は、年間の平均値の、あくまで数字上ではなんとか足りるかもしれない。しかし、ホテルが稼働する超繁忙期にはどれだけの水が必要かを数値化していないまま、行政が建設計画に許可を出した・・というのは、「たなどぅい」の後の「なーきよい」の祭祀を見るため、再び竹富島に来て島びとに話を聞くことができたから、知ったことである。
「わたしたちは水の大切さを身にしみて知っているから、子どもたちにも歯磨きの水は流しっぱなしにしないと教えているし、洗い物の水は捨てずに植物にあげたり、それは日々気をつけている。水が足りるというのなら、もうわたしたちは節水しなくていいんですか?いいんですね?と町に言いたい」
 と話す方もいた。
 たなどぅいの間は、あまりにみんなが忙しく、また行事に集中するなか、そういう話をするゆとりはなかった。 
 しかも、このたなどぅいのタイミングで、港から発着する船の便が、いままでは30分に1便でていたのが、なぜか1時間に1本に変更になっていたのである!
 わたしが石垣島の空港から港に着いてみれば、なんと桟橋に観光客がずらーっと並んで長い列をなしている。当然、一艘の船では乗りきれず、わたしの前で人数オーバーとなってしまう。「2艘出しますから」と船会社のスタッフがいうのには、驚いた。祭りの時季でなくとも観光客はあふれかえっているのに、なぜ1時間に1本にしなくてはならないのか。2艘の船を出すなら、もう乗船が終わる頃には30分以上はかかってしまう。それなら、30分に1本のままで良かった、同じことではないか、なぜ?
 炎天下、うりずんの頃から真夏に桟橋に溢れる観光客が熱中症になるのは、目に見えている。
 ちょうど、このころ入島料の徴収が始まっており、竹富島のターミナル「かりゆし館」に自動販売機が設置され、ポスターを見た観光客が販売機で300円を払って、自己申告によって入島料を払うという仕組みになっていた。(なーきよいのときには、石垣島の港の待合室に旗と販売機が設置されていた)
 世界的に、多すぎる観光客から地域の環境を守り維持するためにビジターに課金する入島料というシステムは今や定着しつつあり、日本の離島では竹富島がはじめての導入になる。f:id:shimautaki:20200101114543j:plain
 しかし、このことについて知っているわたしですら、いったい島のどこで払うのかわからなかったし、多くの観光客がポスターをみながら、販売機を前にしてすら「観光ツアーにふくまれているんだろう、いや船代にもう入っているはずだ」と言い合っているのである。
 確かに石垣港で竹富島行きのチケットを買うのだから、自動的に船代に含まれるのがもっとも簡便な、もれなく徴収できる方法のはず。
 この入島料を船代に含めることができなかったことと、船便が30分に1本から1時間に1本に減らされてしまったことには、どうやらなにか関係があるらしいが、これはわたしのようなビジターにしてみればあくまで噂と憶測に過ぎず、確たる証言を得たわけではないのだから、今は断定はしないでおく。f:id:shimautaki:20200103151208j:plain
(12月21日には、竹富島の島びとたちがRJエステートを反訴した)
 そんな複雑な時に、変わらず、まさに「うつぐみ」精神で島びとが一致団結してたなどぅいを行うというのは、大変な精神的、肉体的なエネルギーを要するにちがいない・・。
 さて、拓さんの顔を見たあと、夕日が沈む前にたどり着いたのは、カイジ浜の蔵元跡。
 もう観光客も引き揚げてひとけのない道路、神の道とされる道の真ん中に白い小さな子猫がいた。f:id:shimautaki:20191231212950j:plain
  思わず「ミーちゃん」と母親の猫の名前を呼ぶと、くるりと振り向き「にゃー」と返事をする。絶妙のタイミングで写真を撮る。
 子猫は、目が見えないのか、向こうから星のやのバスが来るのに退こうとしない。道端から呼んでも動かず、しかたなく近づいて片手で抱いて道の端に移動するのを、バスの運転スタッフと客がじっと見て待っていた。
 モデル料に、と荷物をさがすと、石垣島のカメラマンのお子さまへのおみやげにもってきたハロウィーン仕様のちょっと変わった野菜ふりかけが。小分けになったおかかふりかけを差し出しても見えないのか、食べようとはしない。猫の近くにばらまいてもカラスは寄ってはこなかった。カラスの嘴では、振りかけは無理なのか、カラスと仲良しなのか、カラスに見守られるように食べている不思議な子猫だった。
 ひそかに西塘のおつかいかと想像をふくらませかけたとき、「たなどぅいの説明会をうつぐみ館で行います」の放送が。
 ヒィヒィいいながら、パンクした自転車を強引にこいで、遅刻しつつも説明会に参加できたのだった。
 そして翌日、芸能奉納の初日、天気予報は微妙だった・・。
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(続く)

山本義一遺作展vol.3を振り返って その2

 9月22日日曜日、10時からギャラリーオープンなのだが、ラディアンの前にもうお客さまが待っている。あわてて事務所に顔を出してオープンしてもらう。

 昨夜は父山本義一の菩提寺 大磯楊谷寺のご住職がいらしてくださり会場で話し込み、かたづけないまま帰宅したため、椅子などをならべていると、「おっ、ここだ、ここだ!」といいながらラディアン正面玄関から入ってくるお客さまがいる。車でおいでの方は裏の駐車場からギャラリーに入ってくるので、駅からいらした遠方からのお客さまだ。

朝日新聞を見てきました」

「今朝の朝日を見て、三浦半島からやってきたんですよ」

 と、いうことばに驚く。えっ、今日が掲載日?

 そこへお弟子さんの奈良俶子さんが見に来て、「今朝の朝日新聞に掲載されている」と教えてくれる。

 ラディアンの受付に聞くと、朝日はとっていないという。

 コンビニに買いに行きたいが、そうこうするうちにどっとお客さまがやってくる・・。

 隣の図書館に行くと、ロビーでくつろいでいる方が朝日新聞を読んでいるではないか。「あの~、一緒に見てもいいですか?隣のギャラリーの紹介記事が出ているとかで、確認するだけでいいので」というと、ポイっと渡してくださる。

 湘南版にかなり大きな扱いででている。

 早速、図書館2回でコピーをさせていただき、スタッフの方とあれこれやって拡大コピーをとり、カンバスに貼って会場にも掲示することにした。

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 それからの日曜日と最終日の祝日の月曜日、いやはや、朝日新聞の威力を感じた二日間であった。

 二宮の遺族会の方々もいらしてくれた。

 なかには、「わたしたち家族がこの絵に描かれています」という方があらわれた。

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 沖縄で展示した時も、琉球新報に掲載された記事を読んで『噫、牡丹江よ!』という絵のタイトルを見て「牡丹江につけば日本に帰れる、と言っていた母の言葉を思い出して、ここにくれば亡くなった母に会えると思ってやってきました」と絵の前にたたずみ涙ぐんでいる女性がいたものだ。

 とても若くみえる女性がいらして、「この絵のなかの赤ん坊はわたしの母だと思います」と言ったときには、戦争は遠い過去のことではない、わたしたちのついこのあいだのことだと確信した。連綿と続く時間の流れをたどればたぐりよせられる、いまこそ、その手触りを肌触りを伝えあうべきだ・・、と感じられたものだ。

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 20日の講演会ではわたしも山本義一の二枚の戦争体験画についてパワーポイントを使って軽く説明したので、会場にいらしたお客様の前で、実際の絵を前にして「この二枚の絵がみつかったときのエピソード、そしてこの展示の翌日には新宿住友ビル33階の平和祈念展示資料館に収蔵となること」を話す。

 満洲・牡丹江の地図、山本義一が終戦直前に満洲生活必需品株式会社の社員となっていた社員証などの張りパネも絵のわきに展示してある。藤田嗣治の絵画展のカタログもあるので、多摩美術大学鶴岡真弓のゼミ生たちを前に「戦争体験画の色彩の特徴」について話した内容などを交えて、解説する。

 すると、会場では、こんどは観客たちが語りだすのだ。

 戦争体験を実際に体験した方々、遺族の方々は、それぞれ絵の前で自身の、あるいは親世代の、きょうだいの、親戚の、戦死したお身内の話を語りだす。

 シベリア抑留者のかたもいらした。

 それを聞く周囲のお客さま同士が語り合い、共感しあい、共鳴しあう・・。

 なかには涙を流して聞いている方もいる。

 そういう豊かな時間がもてて、わたしはその渦のただなかにいて、とても幸福な気持ちを味わった。

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 そんなふうにギャラリーでの対応に追われて、大量に持ってきていたほかの絵のあるコーナーの案内まではとても手が回らなかった・・。でも、お時間のある方は熱心に絵を手にとってみているようだった。自由に触れられるのも、また今回のいいところかもしれない、なんちゃって。

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 そうこうするうちに、大学時代の仏文の同級生、富所さん・刀根さん夫婦がきてくれる。杉並区から遠い道のりを来ていただき、頭が下がる。

 お客さまの案内もしなくてはならず、お茶ぐらいのみたいのになんのおかまいもできないのが残念だが、またゆっくり絵を見に二宮にいらしてください、といってラディアンの正面玄関まで見送った。

 そう、絵を見たい方には、三階アトリエの天井内壁崩落の修理工事が終わって、多少は大量の絵の整理だできたところで見ていただくほうがいいのかもしれない・・。

 そんなこんなで二日間は連休でもあり、遠方にお出かけの方々もいただろうが、朝日新聞掲載のおかげで一転、にぎやかな山本義一遺作展vol.3会場となった。

 鎌倉、小田原、三浦、秦野、綾瀬、茅ケ崎、平塚、湯河原、藤沢と、芳名帳を見る限り、二宮町以外からもいらしてくださっていたことがわかる。ようやく、芳名帳の記載ご住所あてにハガキを送り終えたところである。芳名帳は二冊用意したのだが、混んでいると記名しない人が多く、書かないで帰ってしまった方が多かった。

 最初は、二枚の戦争体験画の絵ハガキを作成したので、芳名帳にご記名くだされば送ります、と言っていたのが、もうその手間のほうが大変だと悟り、朝日新聞掲載後はその場で持って帰っていただいた。最後の日には、二枚の絵ハガキはもう残っていなかったし、冊子のほうも何回もラディアンのコピー機でコピーをとるほどだった。

 会場には画家の續橋守先生、大和修治先生もいらしてくれた。

 こんどはぜひ、先生の絵を見に行かせていただきます。

 そして、翌日の朝、赤帽さんがやってきて二枚の戦争体験画を調布の修復工房さんに届けてくれた。送り出すときは、さすがに感無量であった。

 これからこの二枚はあらたな居場所をみつけ、あたらしい人生を歩いて行ってくれるのだ。あたまを下げつつ手を合わせ、こころの中で拍手しながら(近所の目があるからね)お見送りした。

 さあ、わたしも沖縄に行こう!

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山本義一遺作展vol.3を振り返って  その1

 2019年9月19日(木)から23日(月・祝)、神奈川県二宮町生涯学習センター「ラディアン」ギャラリーで行われた山本義一遺作展vol.3は、10月にやってきたスーパー台風19号をどうにか無事にやり過ごし、(埼玉県にある母親の施設、妹の家の近くは荒川水系都幾川が氾濫し、夜間停電という事態にみまわれたのだったのだが、無事だった)ようやくブログに記録しようという時間ができたいま、結果的には「大盛況であった」といえるだろう。

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 立ち上がりの日のお客さまは、それほど多くはなかった。vol.1,2のとき芳名帳に記載してくれた方々には事前にお知らせハガキを出しておいたので、ハガキをもってきてくれた方ももちろんいらしたのだが、隣接する図書館からの帰りに寄ったという方も多かった。

 地元の方々への告知には、二宮町の広報誌、そして神奈川新聞社さんの19日の朝刊記事がおおいに役立ってくれた。

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 残念ながら今年は毎日新聞には掲載されなかったし、地域新聞の掲載もなかったのだから仕方がない、初日にはタイトルの張りパネもすべての絵につけ切れていなかったし、人出が少ないのは逆にやりのこした作業ができていい、という気分だった。

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 二日目は、雑誌クロワッサンのライター時代の仲間である室田元美さんの講演会『土地の記憶 戦争の傷痕は語り続ける』がミーティングルームで行われることになっており、このあいだはわたしもまた会場となるミーティングルームにいるため、ギャラリーでの対応ができない。

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お弟子の渡辺セツ子さんに、その間は、展示会場にいてくれるよう依頼しておく。

 展示前日には、父のお弟子さんで父の後は、新塊樹社会員となった奈良淑子さんが、(六本木の新国立美術館では百号の斬新な女性の絵を出品していらした)80号のカーキ色の『噫、牡丹江よ!』の額入れを手伝ってくださった。

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「私は、慣れていますからね、大丈夫ですよ」とおっしゃって、組み立て式の額を手際よくどんどん絵にはめていく・・。この日の朝には、工務店の方も来て、三階を片付けなくてはならなかったから、わたしはどれだけ、奈良さんの冷静さに助けられたかわからない。80号のカーキ色の『噫、牡丹江よ!』がみつかったとき、わたしはその写真をメールで鶴岡真弓に、絵ハガキにして奈良さんに送ったのだったが、奈良さんは「心ゆさぶられ、涙流れました」と返事を下さったのだ・・。

 今回は、絵を販売することで経費を補うことにしたため、展示する絵が多く、そのための額をやはりお弟子の渡辺セツ子さんの紹介で知り合った佐藤朋子さんに借りようか、いや額はどのみち返却するのだからやめようなどという意見があり、本来の展示準備以外にもさまざまなことが直前までおこり、ばたばたであったのだ。

 そして、20日の講演会当日。

 この日は朝日新聞 湘南版の取材が入り、平塚支局長の遠藤雄二記者が講演会にもいらしてくれた。

 室田さんとともにゆっくりお弁当を食べる間もなく、はるばる船橋から手伝いにいらしてくれた編集者の北川直実さんと資料をホチキスでとめたり、会場に椅子を並べたり、地道な作業に追われる。

 たしか、細川貂々さんとのイベントの時もこういうことがあったなあ、ひとりで会場に椅子をならべているうちにもうお客さまがいらして・・、貂々さんを知らないスタッフが・・、あ、だから講師の方には胸に名前と花をつけてもらうんだっけ・・と感慨にふける間もなく、妙なデジャブが現実化するが、気を取り直してわたしたちふたりはお客様の前に着席する。室田さんのご主人が作ってくれたという、室田さんの名前とわたしの名前を印字した紙をテーブルの前に貼って。

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 講演会はなかなかおもしろかった、と思う。

 14時からはじまって、わたしが山本義一遺作展の二枚の戦争体験画についての話を前座としてひとくさり。

 いよいよ本題の『土地の記憶 戦争の傷痕は語り続ける』。

 パワーポイントでの室田さんのお話があり、一段落して会場の質問を受けたのだが、ついついわたしも話に加わり、お客さまとも白熱した議論が交わされ、気が付くと充実した休憩なしの3時間が過ぎていた。

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 戦争について語り合うこと、その大切さ、コミュニケーションの重要さがあらためて実感できた時間であった。わたしは、こういう体験はなかなかなく、気分が高揚し、とても楽しかった。お客さまの「熱量」に刺激を受けた、という感じであった。もちろんそれは、室田さんの講演内容にみんなが触発されたからにほかならない。

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 しかも、うれしいことに講演会会場に友人の若林夫妻がいらしてくれた。

 鶴岡真弓さんと若林さんと三人で会ったのは何年前にになるだろうか。若林さんのご子息の結婚式以来、鶴岡さんの都内での講演会に行った時以来、そして帝王プラザホテルに宿泊しての女子会以来、である。わたしたち三人は20代からの親友といっていいだろう。ラディアンの廊下をこちらに向かってくるお二人を見たときには驚いた。すっかり元気になった若林さんは、講演会の会場でも、ひそかにわたしが繰り出す「鶴岡流」の「めくらまし」的「終わりのない渦巻風の」語りに気が付いているようであった。

 そう、いままでなんどか鶴岡さんの講演会に行ったおかげで、鶴岡さんの語りが身についていたようなのだ。若林さんのご主人は「司会者がいないから、終わるかと思うとまた始まる感じ」と最後に感想をもらしたが、わたしは確信犯的にその鶴岡流エンドレスな生命循環の渦巻感を彼が感じていたので「やった~」と思ったものだ。

「これは、鶴岡流質問封じ、渦巻のように繰り返し始まる、というテクです」というと、彼は「なるほど、終わらないほうがかえっていいかも」的に納得していた。

 質問封じというのはいいすぎだが、小さな差異を指摘するよりは、違う方向から話をもってきて、響きあう、共鳴しあう、最終的にはおおきなところで納得しあう、ということはこういうテーマの場合、大事なのかもしれないと思った。

 そのあと、鶴岡さんと電話で話したとき、彼女のエンドレス話法は自分で「めくらまし」だと言っていた。めくるめくケルトの世界がめくらましの語りで展開されるのは、鶴岡さんの伝えようとするテーマにあっている・・。

 翌日は、川岸祐子さんがいらしてくれた。いらしてくれた。彼女とは、竹富島や大森一也さんの写真展、さらには沖縄愛楽園の金城雅春自治会長と祈念館学芸員辻央さんの東京都人権センターでの講演会の会場でも遭遇するのだが、はるばる二宮まで来てくれたのだった。滞在時間はたったの5分、それでも見に来てくれたのだからありがたい。そうこうするうちに、早くも会場にて配布する冊子がなくなっていたので、前回の展示に来てくれた青年に留守番を依頼して、わたしはシニアカーで百円ショップのコピーをとりに行くなど、のんびりとした展示風景が続いた。

 しかし、のんびり、なんて言っていられるのは、その日までであった・・。

 翌日、一変したのである。(続く)

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