京都大学医学図書館で小笠原登の資料に出会いました。

 3月中旬、宝塚で打ち合わせを終えた後、そのまま東京へとんぼ返りするのではなく、京都へ。
 まだ桜も咲いていない時期であったが、今回は京都大学に近いところに宿がとれたので、ぜひ京都大学医学部に足を運んでみようと思ったのだ。


以前から気になっていた、京大医学部皮膚科でハンセン病の外来治療を行っていた医師小笠原登の資料を探すためであった。
 当日の朝、ホテルから電話をして、大学病院に資料がないか問い合わせると、医学図書館の電話番号を教えてくれた。一般の検索もできるようなので、図書館のスタッフに電話で小笠原医師の名前を告げる。ほんらいは図書館に通って自分で検索してようやくさぐりあてるところである。でも、その日のうちに東京に帰らねばならない事情と、2005年に上梓した『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語』のなかで、京都大医学部のことについてほんの少ししか記せなかったこと、できれば小笠原の研究論文を読みたい旨を伝えると、親切な菊池さんが大学内のネット検索できるものについては探し出してくれるという。
 ネット社会になったおかげで、昔のようにすべて紙ものにあたらなくてもよくなったのだ。それゆえ外部の人間も図書館のなかには入れなくても、ネットでお目当ての資料がみつかれば、図書館内のブースでそれを読み、有料のコピー機で複写することができるのという。いそいで京大医学部へ向かう。
 教えられたとおり、大学敷地内の生協へ行って、低料金で複写できるコピーカードを購入する。500円では足りず、結局あとで追加して合計2000円ぐらいのカードを使うことになった。生協のなかに学食があり、おかげで京大医学部の学生さんたちと一緒に昼食を食べるという楽しさが加わり、なかなかおもしろい体験ができた。
 学食はほんとうに安くて、良心的。300円ぐらいで本日のおすすめ定食に、好きな小鉢を組み合わせたオリジナルメニューが作れる。しかもご飯が白米か麦入りご飯かを選べるのだ。朝食の提供も行っているようで、さすがに小笠原が論文の中で提案していたように、いかに栄養状態が大事か、ということを京都大学医学部はよくわかっている・・。
 そう、今回みつけた資料のなかで小笠原が述べていることで、わたしが得心したのは、ハンセン病は微弱な感染症にすぎず、体質による病へのかかりやすさはあるが、それは栄養状態、衛生状態、環境によって改善できる、としていることだった。
 とりわけ1920年代、農村部の人に患者が多いことからも、彼は栄養状態が改善されることが大事だと述べている。漢方医学の考え方についても研究していたことは、彼が免疫力をあげることで体質改善ができ、感染症になりにくくなることを重視していたことを示しているように思えた。
 そして、小笠原の僧侶のような、哲学者のような、そして患者に対してはやさしく手をとって長い時間をかけて話を聞くという姿勢。腰の低い、丁寧な物腰の(ちょっとバカ丁寧ともみえる)様子がわかって、わたしはなんどかクスクスとひとり笑いをしてしまったものだった。
 らい予防法の時代に、患者がハンセン病であることがわかると、絶対隔離という時代に、小笠原はカルテの病名の記載を「適当な病名を記して」外来患者として診察を続けた。そのことを了解していた京大の懐も深かったのであろう。
 小笠原のカルテの文字の写真は、ひとりの患者に多くの記載があり、診察の丁寧さを示している。考えに筆記スピードがついていかず、(縦書きならいいのだが、カルテは横書きなためもあって)流れるような書体になっていることもわかった。はじめて見る直筆のサインの文字と写真をくいいるようにながめてしまった。

 学者である兄とともに京都に家を借りて、独身の男性ふたりが一緒に暮らしていたこと、大学生が書生さんのように交代で炊事などの家事の世話をしていたこと、そのなかに1996年のらい予防法廃止の最大の功労者の大谷藤郎氏がいたこともわかり興味深かった。大谷氏はハンセン病国賠訴訟のおりには、被告の国側の元厚労省医務局長として、法廷で「らい予防法は間違いであった」と原告側の元患者たちの側から発言した人である。(2010年没)。患者の立場に立った医師、小笠原の弟子であったからだろう。
 実は3月末に沖縄に出張していたのだが、その間にハンセン病問題では動きがあった。
 ちょうど3月末で、らい予防法廃止から20年がたったことになる。
 3月31日には、ハンセン病患者の裁判を療養所内で行っていたいわゆる隔離法廷「特別法廷」問題を検証していた最高裁が、謝罪をすることが決まったという。無実を主張していた患者が死刑執行された菊池事件のように、非公開で行われた裁判は、はたして公正な審理だったのだろうか。
 そして、帰りの飛行機の中で前席の方の読む沖縄タイムス3月31日の紙面には、ハンセン病の家族が、強制隔離政策によって差別や偏見を受けたことへの謝罪と損害賠償を求める裁判「ハンセン病家族訴訟」に、今回沖縄から244人が加わり、509人が29日に熊本地裁に提訴したとあった。
 羽田空港に到着したとき捨ておかれた新聞をありがたくもらって読むと、全国国立ハンセン病療養所の平均年齢は83歳を超え、4人にひとりが認知症という。実際に集会で介護職員の方の話を聞いたときにも、職員の数が足りずに、食事の世話が十分ではなく、誤嚥で亡くなったり、フォークをおとし、職員が戻るまで食べられなかったり、さまざまな問題が起こっているようだった。
 これは、父の死亡原因が、食後に歯磨きをおこたったことで喉に発生したカンジダ菌による敗血症であったことを思うと、ハンセン病患者だけの問題ではないと思う。
 高齢者になるのはほかならぬわたしたちであり、ハンセン病療養所内の問題はわたしたち社会全体の雛形なのだ。
 将来、わたしたちにおこりうる問題を、そして、もし国家がなにか思惑をもって弱者や病者の存在をコントロールすることがあればどのような問題がおこるのかを、いまハンセン病療養所の方々に見せてもらっているのだ。
 それをどう解決するか。
 それはわたしたち自身の未来をどのように社会全体で描いていくか、が問われているのだと思う。
 小笠原登が、もし医学界によって、光田健輔らの医師によって、糾弾され抑え込まれなかったならどうだっただろう。隔離政策はかくも長くは続かなかったことは間違いないだろう。しかし、奄美ハンセン病療養所に赴任したかどうかは、わからない・・。
 ほんとうに、人の人生の軌跡というものは不可思議である。
 しかし、ひとつひとつに光をあてることで、おぼろげながらもみえてくるものは必ずある。かならずもっと大きな光を与えてくれる。照り返してくれるのだ。
 図書館を辞すときに、菊池さんは「ぜひ、またいい作品を」と言ってくださった。
 ネット社会は、自分の仕事も、たとえ10年前の出版であっても多くの人に知ってもらえる。
 そのようにして、小さな光をあててもらうことで、また大きな光に向かって歩いて行ける。
 光は光によって照らしあうのだなあ・・。
 小笠原の深くて大きな光に触れてあたたかい気持ちになったわたしは、京の名残にと夕暮れの銀閣寺に足を延ばし、すがすがしい気持ちで新幹線に飛び乗った。