三保の松原学シンポジウムに行ってきました。松を救う知恵とは⁉

 2月20日清水市にあるマリナート小ホールで三保の松原学シンポジウムが開催された。司会は本阿弥清氏で、第1部と2部からなる構成だ。

 その日は朝から降っていた雨が午後にはおおぶりとなり、開始時間午後6時半にはどしゃぶりであった。

 三保の松原は、富士山から約45メートル離れているにもかかわらず、富士山世界文化遺産に登録された。第一部では、そのいきさつについて多くの時間が割かれた。市民にとっては、逆転勝利の登録はうれしいことであろう。しかし、それで終わりではなく、むしろこれから考えていかなくてはならない問題がある、ということがわかる。

 ふじのくに地球環境史ミュージアム館長の安田喜憲先生の講演で興味深かったのは、文学的な視点と科学的視点が融合されていたことだ。
 富士山とは信仰の対象であり、芸術の源泉であるという(人の魂のよりどころや発露といってもいい)視点だけでなく、森、川、海、生物の連鎖による、山と水の循環を守ることが環境学的にも重要であるという視点。この両方が密接にかかわっている、いやむしろ切り離せないものであることが、よく理解できた。
 山という聖域から流れてくる水は、山の化身であり、水によって生かされている生命を守ることが大切、命の水の循環を守ることが東洋の世界観だという。
 安田先生はカンボジアの例を出されてたが、沖縄でも、井戸や泉、カーやヒージャーを聖域として大切にしている。山(杜)を背後して、御嶽・拝所がある構造を、腰当(クサティ)というのだが、さらに近くに湧水があるという聖域の構造は、まさに富士山と御穂神社、天女の舞い降りた三保の松原ともかさなってくる。
 安田先生は天女は富士山の化身、コノハナサクヤヒメであり、天女は水浴び(つまり海水浴?)をしていたともおっしゃっていた。そうだったのか。(沖縄の浜下り行事をわたしはまた連想した)
 この東洋の信仰や世界観は、水つながりの生命をひとしく守ろうとする生物多様性の考え方にもつながる。さらにはすべての命に神が宿るとする、八百万の神々への信仰、多神教にも結びつく。
 一神教の文明ではなく、多神教のライフスタイルこそが、これからの新しい文明ではないか。実はヨーロッパの人々もそのことに気が付いているのではないか、と安田先生は言った。なるほど、キリスト教とISの対立を考えれば、生きとし生けるものと折り合いをつけていこうとする東洋の世界観は、世界が学びたい知恵ではある。
 この価値観に気がついたユネスコのメンバーたちによって、霊峰富士山と天女伝説のある三保の松原世界文化遺産に登録されたのだとしたら、なかなか示唆に富んでいると思う。
 沖縄のフンシー(風水)にもまさしくあてはまる考え方だからだ。
 沖縄では松は気の通り道でもある(荒俣宏先生)。聖域には欠かせない樹木、クバと同じように(吉野裕子先生)意味がある。
 安田先生は、この三保の松原の、松の保全についても言及されていた。
 くわしいデータは、静岡県文化・観光部理事の杉山泰裕氏から補足説明があった。
 虫食いによる松枯れを、ニコチノイド系の農薬を散布することで防ごうとする現状のお手当法では、ミツバチや鳥、バクテリアなどの非脊椎動物が死滅してしまうのだという。
「人間には影響は少ないんですよ、でも、これでは人間と家畜のみの世界になってしまう」と安田先生は言った。
 わたしが、1999年に出版した『ヤマト嫁 沖縄に恋した女たち』の取材のため、宮古島の葉タバコ農家に通っていたときのことだ。島で最初に無農薬マンゴーをはじめたシマンチューの夫は、こう言っていた。
「自分が子どものときはよ、蛇やカラスがうじゃうじゃいた、でもいまは鳥やみつばち、蝶々や小さな虫までがいなくなってしまった、これは農薬のせいではないかと自分はおもっているわけさあ、だから農薬を使わない農業をやりたい」と。
 小さな生き物たちをも守る、生きとし生けるものを生かす、安全な農薬を開発してもらいたい、そう安田先生はおっしゃった。
 第2部は、安田先生と鶴岡真弓トークであった。
 そう、ヨーロッパの古層、ケルトの人々とは、実はいのちの水を大切にする水信仰の民である。フランスの水、volvicはまさに火山のドームの名前から来ており、山の伏流水であり、セーヌ川ライン川ドナウ川などの名前はケルト語だということも鶴岡さんの説明で知った。このあたりでは、水が治癒の信仰とむすびついていたということも興味深かった。あちこちに「ルルドの泉」が存在するのである。
 そして、ご存じ、ケルトとは精霊を信じるアニミズム的世界観をもつ文化である。
 西洋にありながら、東洋的世界観をもつ人々。
 そう、富士山信仰とケルトは、重なり合うのであった。
 室町時代後期の作という、「絹本著色 富士曼荼羅図に」は、日本平から三保の松原を経て富士に至る風水的な構図が描かれている。三保の松原から見える富士山という構図が、信仰的な意味をもってくる。ヨーロッパの古層を掘り起こすケルトというキーワードによって、この図が広がりをもって見えてくる一瞬であった。
 さらにわたしが刺激されたのは、沖縄の新基地建設の問題をも政治的な問題としてだけではなく、別の視座でみることを教えてくれたように思えたからだ。
 友人の辺野古在住の作家・浦島悦子さんは、沖縄の「やんばる」の森を守る活動をしていて、基地問題に取り組むことになったことを思い起こす。
 辺野古という海には、ジュゴンというまるで天女のような、人魚のような生き物(琉球王への捧げものでもある)が生息し、辺野古のある沖縄本島北部には「やんばる」とよばれる深い山々があり、山の豊かな水はダム開発によって南部の沖縄県民に送られている。
 山と海と聖獣ジュゴンの、水をめぐるいのちのつらなり・・。
 安田先生への感謝をこめて、発言させていただいた。
 そして、翌日は前日の雨がうそのような晴天となった。



 わたしは、安田先生がおっしゃっていた松の状態が気になって、清水港から観光船で三保マリーナへ。かもめたちがエサをもとめて船によってくる。三保の松原に到着すると、多くのマリンスポーツを楽しむ人、ウオーキングにやってきた人々で休日の海岸はにぎわっていた。
 わたしもそのまま歩き出す人についていく。
 ウインドサーフィンやボートの練習場となっているようで、砂浜ではウエットスーツを着た人がおりしも昼食時間とあって休憩している。
 浜は白砂、というより黒砂で、(昨年逝去された松本健一氏の『海岸線の歴史』には、江戸時代に米作りのため白砂青松ができたという指摘があり、おもしろい)意外にゴミが海岸に落ちているのが目につく。
 ペットボトルやビニールなど、流れ着いたものなのか。夏みかんも漂着していた。
 だいぶ歩いたのだが、羽衣の松まではなかなかに遠い。戻ってくるウオーキングの人たちに声をかけると、ビーチ沿いに歩いて一周するのは2〜3時間はかかるとのこと。3時過ぎると帰りの船が1時間に1本になると船内で放送していたっけ。
 三保飛行場のあたりにくると、遊歩道は工事中でこの先に進めるのか不安になる。
 それでも車の走る道路に出てとぼとぼと歩いていくと、遊歩道のあたりの松の枝が茶色く枯れているのが目に留った。「地元の方でないと被害はわかりにくい」とシンポジウムではいっていたが、これが松くい虫の被害だろうかと休憩しつつ観察していると、松の苗を植えている畑が道路沿いにあり、おじさんとおばさんが世話をしているのに遭遇する。




 数センチの小さな松の苗から、やや大きく育った松、正月の松飾ぐらいになった松。松畑は小さな苗から大きく育つまでが順番に植えられている。
「この三保の松の松ぼっくりから種をとって、苗を育てているんだよ。30センチぐらいになったら、海岸に植えてやれば、松は自力で育つからね」
 「松は、茶色くなったところを切ってやると、ほら触ってごらん、自分で松脂を出して身を守ろうとする。こうすれば虫がついても大丈夫なわけ。松は自分の生命力で、ちゃんと生きていけるわけよ」
 そういって、目の前の苗の松の穂を切った枝の断面を触らせてくれる。
 切り口はこんもりとふくらんでいる。触ると、指にはべとべとっと松脂がついた。  けっこう接着剤効果が高く、拭いても指はべとつく。
 この脂には虫を避けたり抗菌効果があるらしい。人が手を入れてやれば、植物は自分の身を守るための自然治癒力を発揮できるのか。
 しかし、松原の管理は行政の管轄なので、目の前の枯れてぶらさがっている茶色い松の枝を切ることはできないのだという。
「かわいそうだし、美観が悪いよね。観光客も松を見に来るわけだし。いちばんお金がかからない方法は、松の枝に人が手を入れてやることなのにね」
 でも、ほうっておくわけにはいかない、自分たちができることをやろうと、住民グループで松の苗つくりを始めたのだという。
 三保の松原の独特の地形は、西風、東風両方が吹いても川のゴミが海岸に打ち寄せられてしまうため、ゴミ拾いもかかせないらしい。この地形が、実は港にゴミが入るのを防いでいるのだという。
 三保の松原は美観だけでなく、ゴミから港を守る防波堤の役割もはたしてるのだ。
 地元のボランティアの方々は、このようにしてゴミを拾い、小さな松の苗を種から育て、先を見越して次々と苗を段階的に育てているのだった。
 ここは、いわば松のゆりかごである。

 わたしはこの説明にうなった。
 安全な農薬の開発しか、あるいは土壌改良剤を砂浜に与えることしか、あるいは耐性のある松に植え替えていくこと以外には、三保の松を救う手だてはないものかと思っていた。
 しかし、農薬に頼らずとも、栄養を与えずとも、三保の松の種以外のものをもってこなくても、お金をかけずに人の手を入れて、松を救うことはできるのだ。

 わたしがフリーランスのライターになって最初の仕事は「山の声を聞く人々」という某新聞の連載だった。
 女性の山林所有者の方は『山の肥えは人の足音』だと語っていた。山は人が足しげく通って手入れをして間伐材を切ってこそ、いい山になる。自然と人の共生、という意味で、わたしは興味深くそのことばを胸に刻んだものだった。
 わたしたちは自然から多くのものをいただいている。
 それは食糧という人のいのちを紡ぐものだけではない、芸術も文化も、そして魂のよりどころとしての信仰も、自然あってのものなのだ。
 ならば、自然が本来もっている生命力、治癒力をひきだせるようお手伝いすることをぜひともしたいと思う。わたしたちの心身が弱った時も、メスや薬剤だけに頼るだけではなく、わたしたちが本来もっている自然治癒力をよびさます、すべ(術)を忘れないようにしよう。
 持続可能な開発というのは、きっとそんなことをいうのではないかと思った。
 そうそう、巴川はケルト文様の渦巻きのトリスケル、三つ巴だ、という鶴岡さんの指摘にもわくわくしたことを付け加えておこう。生と死と再生を意味する巴印の川にかかる稚児橋が、わたしの母の実家『橋虎』誕生の地だったことは、なにかをひそかに教えてくれているのかもしれなかった。
 
後日の話
 
 ブログを読んでいただいた杉山氏よりメールがあり、市民の声を県に伝えていくとのこと。市議の栗田氏よりも市に伝えていくとメールがあった。また、郵送で本稿をお送ていた安田先生からもご丁寧なメールをいただいた。三保の松の将来を案じていらっしゃる様子が伝わってきた。市民と研究者、行政が一体になって、つまり三つ巴になって取り組んでいけば、三保の松原の未来は明るいのではないだろうか。 
 そう、ケルトのトリスケルの教えである。