エネルギーは諸刃の剣か。

 宮崎駿監督が『もののけ姫』のなかでハンセン病者を描いたと知って、こころのなかに澱のように沈殿していたかけらが、記憶と結びついてふいにひとつのかたちを作りながら立ちあがってくるような気がした。
 それは、昨年11月の末に東舞鶴にある引揚記念館に行ったときのことだ。



 その日、京都にもどるのではなく、急きょ東舞鶴に一泊することにしたわたしは、駅にもどるのにちょうどいいバスがなく、またどこも観光せずにホテルにチェックインするのももったいないような気がして、いわゆるミニバスに乗って終点まで行きまた記念館経由で戻ってきて東舞鶴に帰るという、小さな寄り道をした。
 ほかには誰も乗客は乗っておらず、この短いバスツアーのおかげで、舞鶴の地形が把握できたのはよかったと思う。引揚者を迎えた桟橋あとにはいかなかったが、山を越えてうねうねと道を進むと、海にたどりつく。そこからまた、引き返してくるというコースのため、入り江になっている舞鶴の港は戦国時代から太平洋戦争、そして現在にいたるまで軍事上重要な軍港の役割を担うポイントであることが体感できた。
 入り組んでいる入り江は船をとめておいても、沖からやってくる敵には気づかれにくく、天然の船溜まりとして最適だ。一方、小高い山からははるかかなたの沖まで日本海を広く監視できる。
 引揚船がつく港とは、なるほどそういう軍事的なポイントでもあったのだ。
 地形が、歴史的にこのエリアを戦国武将たちの要塞、海軍基地、自衛隊の基地という、役割を引き寄せてきたのだろう。
 そして、わたしは度肝を抜くような光景を目にする。
 山の向こうから狼煙のような煙が上がっているなあ、と夕暮れが近づきつつある空を見上げていると、ぐるりとバスが山をまわりこむや、その煙を発生している根元が、突如姿を現した。
 巨大なタコのような金属製の送管が地を這い、大きなタンクや倉庫、工場らしき建物をつないでいる。その太い管に沿ってバスが走っていき、工場らしき建物群が見えて全容が把握できるまで、わたしは奇妙な幻想にとらわれ、帰りのルートで再度全容を確認したのちも、しばらく幻想が頭から消えなかった。
 黒い煙はもくもくと吐き出され、空全体はそこのあたりだけ不気味な鈍色に覆われている・・。
 映画『もののけ姫』のなかにでてきた地上をおおいつくす巨大なばけものに、この山と海が畑がおおわれていく・・そんなアニメの世界が忽然と姿をあらわしたのか、いやそのなかにわたしが迷い込んでしまったのか・・。
 この巨大な施設は、火力発電所であった。
 翌日、タクシーの運転手さんに教えてもらって、関西電力の石炭火力発電所だと知った。火力?と聞いて驚いたのだが、実は原発以外に関西電力は多くの電力を火力によってまかなっており、この舞鶴発電所は180万kwもの電力を供給しているのだ。
 石炭を高温の火力によって燃やして、エネルギーが作られている。電気と違って、ためることができるそうだが、風力発電の巨大風車やソーラーシステムのパネルと違って、どこか秘密の軍需工場のようなにおいがしたのはなぜだろう。
 さらに、舞鶴のすぐ近くには高浜原発があると聞いて、仰天する。
 大阪・美浜・敦賀も再稼働するというニュースは今日報道で知ったのだが、もし原発事故が起これば、海岸線をおおいつくすばけもののように、炎が、目には見えない放射能が走ることが容易に想像できた。思わず、タクシーの運転手さんにそのことをもらすと、彼もまた「こわいですよ」とつぶやいた。
 まがまがしいばけもののような肌感覚は、そのアラームだったのか。
 一見、のどかな地は、山と海が近く天然の要塞であり、軍港であり、朝鮮半島にも近く、拉致事件日本海側では決してひとごとではないということを、ありありと実感させるものでもあった。
 その地に、満洲やシベリアで辛苦をなめた引揚者の方々が還りつき、あのように歓喜の出迎えを受けて手厚くもてなされたのだと思うと、深い感慨にとらわれる。

 滞在二日目に記念館での二度目の見学を終えて、東舞鶴までのバスにのりこむとき、同乗者はその日、小学生たちにシベリア抑留の体験を語って聞かせたボランティアの語り部の男性の方だった。93歳になられるその方は、収容所では三波春夫と一緒だったという。

 2歳ほど年下で、からだが弱かった三波を、炊事担当だった男性は夜になると残り物を融通してやったという。そのころから三波は収容所で浪曲を披露して、みなをなぐさめていた。
「彼は自分より半年ほど早く引き揚げたんだよ。自分が舞鶴に帰ってきたら、ラジオから三波春夫のうたが聞こえてきて驚いた。戦後すぐに歌謡曲に変えて、成功したんだ。もともとは浪曲だったんだよ。それから、亡くなる前までずっと三波春夫はこの東舞鶴に毎年のように公演に来ていたよ」
 男性は、稲刈りのあとの稲わらを使って、これから年内は小学生たちに正月のしめ縄づくりの講習をするので、忙しくなると言った。
「子どもたちは喜んでくれるよ。自分が生きている限り、こうしてからだが動く限り、戦争で起こったこと、シベリアでどんな目にあったか、語り部として話していこうと思っている」
 バスが東舞鶴につき、杖を突いた彼とは、駅の改札で別れた。
 わたしは京都行の特急を待ってしばらくホームにいたが、彼はいま出た下り列車に乗り込んだだろう。
 この舞鶴から戦地に行き帰ってきた父親と同じ年代の人。彼と同じ時間を共有できたおかげで、わたしは父と話しているような気持ちになれた。父からはほとんど戦争の話を聞けなかったけれども。
 わたしたちはせめて戦争体験者の話を伝え、手渡す努力をしよう。
 そして、エネルギーというものは人類にとって必要なものであるけれども、それだけに誤った使い方・入手の仕方をしてはいけない、まさに諸刃の剣のようなものだとも感じる旅でもあった。