『もののけ姫』にはやはりハンセン病患者が描かれていた。(本文消えてしまい新規リライトしました)

 先日、新聞で人類遺産世界会議なるものが開催され、宮崎駿さんが講演をしたという記事を読んだ。彼は『もののけ姫』のなかにハンセン病の人々を描いた」と語ったという。

 やっぱり。やはりそうであったか。
 烏帽子御前と言う名の女頭率いる山の民は、タタラ製鉄の集団であった。山を削って砂鉄をとり、鉄砲政策のための鉄をつくる製鉄をなりわいとする人々。彼らは、手足を包帯でぐるぐる巻きにして、不自由な体を互いに介抱し、介護しあっているようすが描かれたいた。それをみたときに、これはまさにかつてのハンセン病療養所の様子ではないか、と感じたのであった。那覇桜坂劇場で見たのではなかったか。
 昨年9月に、名護市済井出にある国立ハンセン病療養所愛楽園の「交流会館」で、父・山本義一の遺作展を開催していただいた。




 6月にオープンした交流会館の1階では、愛楽園の歴史を写真や貴重な資料によって紹介している。そこで見た、戦争中の愛楽園の様子、そして戦前のハンセン病療養所の実態は、まさに映画『もののけ姫』に描かれていた、患者同士が互いに互いをケアしあうしかなかった療養所内の様子と重なってくる。
 2005年に出版した『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』(講談社)は、東京にある多摩全生園と愛楽園が登場する。主人公の男性の妹がハンセン病であることがわかり、10代で愛楽園に入所しなくてはならなくなり、主人公は妹と入所者を音楽で慰めようとたびたび、この遠く離れた地に八重山から通っていた。
 1931年に「癩予防法」が成立すると、国はハンセン病患者の絶対隔離と断種政策をすすめ、「無癩県運動」と呼ばれる、いわばハンセン病患者をすべて隔離するという、「らい狩り」と呼ばれる運動を展開した。
 保健所の医師の診察でハンセン病と診断された妹は、すぐに八重山から本島の愛楽園に入所し、そこで出会った入所者と結婚した。(絶対隔離と断種政策にあって、アメリカ軍統制下にあった沖縄では、堕胎は野蛮であるという看護婦たちによって、妊娠が発覚した場合、子どもを産むことはできた)
 その夫が亡くなったときのことを、愛楽園の教会で牧師をしていらした松岡和夫さんから聞いたことがある。戦争中の人手不足のときだけでなく、療養所では職員の人手不足を補うために、障害が軽い患者は重い患者の介護を手伝わされた。結核にかかった患者は園内でさらに隔離病棟に入っていた。主人公の妹の夫は、この結核患者の世話を担当していたという。
「僕は結核になってベッドに寝ていたら、となりの部屋からう〜んう〜んとうなる声が一晩中聞こえていた。それがずーっと耳から離れないんだよ」
 正月に腹痛を訴え、隣室に寝かされていたが、正月のためじゅうぶんな看護も受けず、そのまま急死したのだという。いまなら治癒するはずの、腸チフスのような病気だったのではないかと牧師は言った。
 家族も、また入所者たちも驚く夫の急死は、このようにハンセン病者が病者を看護しなくてはならないという体制にあったというのは、否定できないだろう。
 わたしが敬愛する京都大学皮膚科の小笠原登医師は、ハンセン病は遺伝病ではなく微弱な感染病であり、患者の体質が疾病生成に大きい要素となると発表していた。
 つまり、らい菌に感染しやすい体質は、栄養、衛生状態によって改善することができる。ハンセン病は絶対隔離政策をとらずとも治癒できると説いたのである。
 ということは、らい菌に感染し、感染症にかかりやすい体質の患者が、さらに結核患者を介護するというのは、健康な人間以上にいのちの危険をおかしやすいということになる。
 戦争中はとくに足りない物資をやりくりして、包帯などを十分に消毒せずに使い、壕を掘るなどの重労働を行わざるを得なければ(日本軍の命令で行ったということが交流会館の写真でわかる)、患者は手足の傷口から感染して、さらに病状が悪化していっただろう。
 『もののけ姫』の山の民が、手足を包帯でぐるぐる巻きにして、杖をついて互いに支えあっていた様子は、まるで戦争中の療養所内の様子を描いたかと思われるものだった。
 それにしても、日本のハンセン病患者への絶対隔離と断種という政策は、世界的に見ても時代遅れであった。それでもなぜ、それを続けたのか。
 1920年代からうちだされていく「無癩県運動」の徹底は、国家が戦争に向かっていくことと無関係ではない。富国強兵のためには、ハンセン病のような感染症患者を撲滅するべきという『民族浄化』の考えである。
 この国家総動員で国防にあたるというのは、国民がいわば武器であり、戦力であるから、その武器は「健康な身体」でなくてはならない、という論理ではないだろうか。
 国民全員に『健康』であることを求めたといってもいい。「良い国民、つまり戦争で戦える国民とは病気ではなく、健康でなくてはならない、それが日本国民の義務である」という考えだ。国力、戦力低下につながる病者、まして感染症の患者は隔離して根絶やしにしなくては「国辱」であるとまで、医師たちによって語られていた。
 2005年に第1回ハンセン病市民会議で藤野豊さんにお話をうかがって、彼の名著によって知っていたハンセン病者の苦難の歴史とは、戦争に向かおうとする日本の政治に翻弄されていたからにほかならないことが、よく理解できた。
 小笠原登は、1925年から退官の1948年まで京都大学で、国立大学で唯一のハンセン病患者の外来診察を行っていた。
 実家が真宗大谷派の寺であった小笠原は、僧侶のようにときに哲学者のように、患者の手をとり、からだを素手でさわり、ともに語らい、診察時間をはるかにオーバーして患者を診た。診察後にすぐに手を洗おうとすると看護婦をしかったというエピソードもある。
 患者の身体だけでなくこころをも含め、まるごと受け止め、差別と偏見なく接した彼は、しかし、ハンセン病患者の絶対隔離を推し進めようとする国立療養所長島愛生園園長・光田健輔らによって、1941年第15回日本癩学会の場で糾弾され、発言を抑え込まれてしまう・・・。

 年末から正月にかけて、貴重な一冊の本に出会った。

 二至村菁著の『米軍医が見た占領下京都の600日』(藤原書店)。
 このなかにはほんの数行ではあるが、京大皮膚科でハンセン病外来治療を行っていた小笠原登のことがでてくる。
 若い軍医が戦争後の京都で見た米軍占領下の京都。
 日本人を見下すことなくさまざまな改革を行っていく軍医の、なかなかしたたかな働きぶりと好もしさ。米軍の日本に対する政治的な思惑。若き独身男性である軍医と周囲の人々との交流、国の垣根を越えた人間的な触れあい。貴重な資料と軍医の手紙、多くのカラー写真。
 ときおりクスッとしながら、読み終えてしまうのが惜しくなる、いい本であった。
 先日は、ハンセン病患者から生まれた子どもが、こころに深い傷を負ったとして、裁判を起こしたという報道も目にした。
 ハンセン病問題は、まだ終わってはいない。
 歴史を学ぶことは、同じ道をたどらないためのチャンスだと思った。