早稲田大学で行われた「戦後沖縄・歴史認識アピール」のつどいに行ってきました。

 4月22日、沖縄在住の友人、浦島悦子さんをお迎えに羽田空港に行った。
 浦島さんはやんばるとよばれる沖縄北部に移り住み、やんばるの森をまもる活動を経て、いまは三原に住み、20年の長きにわたり辺野古新基地建設反対運動にかかわっている。
 1999年に上梓した『ヤマト嫁 沖縄に恋した女たち』(毎日新聞社)に、浦島さんを(第六章 やんばるの森がよみがえるとき)かかせていただいて以来のおつきあいだ。
 あす23日、早稲田大学3号館で行われる「戦後沖縄・歴史認識アピール」のつどいで、

浦島さんは「ヘリ基地いらない二見以北十区の会」の活動を通してみつめてきた辺野古からの報告をすることになっている。今回、はじめて浦島さんの講演を聞くのが、楽しみであった。
 羽田第2空港の滑走路がみわたせるレストランでは、すでに到着した浦島さんと、今回のアピールを出した4名の歴史学者のひとり鹿野政直氏のおつれあい、詩人にして女性史研究者の堀場清子さんが、語り合っていた。

 浦島さんからのメールで、堀場さんが羽田空港に迎えにいらっしゃると知って、わたしはあわてて自宅書棚から堀場さんの著書『イナグヤ ナナバチ』を探し出したのだった。
 この本はわたしにとって、『ヤマト嫁』の取材の時の道しるべであった。
 堀場さんの本との出会いによって、知ったことはたくさんある。男系継嗣の沖縄にあって、トート―メ―を女性が継ぐことことができないのはおかしいと裁判を起こした女性のこと、また琉球新報の野里さんがはじめたトート―メ―キャンペーンのことを知って、琉球新報社に野里さんを訪ねたことも懐かしく思い出した。
 文庫本『沖縄的人生』(光文社)のなかでは、上野千鶴子先生が『ヤマト嫁』を引用した上で、このトート―メ―論争に、そして『イナグヤ ナナバチ』について言及しており、本物の堀場さんにお目にかかる機会がめぐってこようとは・・と、このタイミングを逃してはならじ、という感じで羽田に駆けつけたのである。
 堀場さんの詩集『首里』というたいそう美しい装丁の(勝公彦氏の手漉き琉球紙を複写)本も自宅に眠っていた。この帯に記された詩の一文がまた、スゴイのだ。
 ああ、かの 王朝の 優雅のうちに在って 骨となったのちのちまでも 男の重たさ そんな、詩の強いイメージから、わたしはコワそうな方をイメージしていたのだが、実際にお目にかかった堀場さんは、ふくよかでおだやかな印象で、浦島さんを迎えるにあたって用意したという「歓迎 浦島悦子さま」という手書きの模造紙をみせてくれる。

 浦島さんとは、昨年、名護市の愛楽園交流会館ギャラリーで亡き父山本義一遺作展を行ったおりに会って以来。せんだっての4月の南城市取材のときにも会えなかったので、羽田から浦島さんの宿泊先まで同行する道すがら積もる話をするこころ積りだった。
 結局、その晩は浦島さんの宿泊するホテルからバスで20分ほどの、かつての実家のあった西東京市の友人の家に泊まり、翌日浦島さんと早稲田大学へと向かった。
 久しぶりに訪れた早稲田大学のキャンパスは新緑の候、広々としたキャンパスは開放的で、歴史的建造物に屋根をつけて保存し、内部にはエレベーターを新設しつつ活用しているのが、なかなかよかった。



 『戦後沖縄・歴史認識アピール』は、辺野古新基地建設問題をめぐって、沖縄県の翁長知事と政府との集中協議の場で述べた管官房長官の発言に抗議し撤回を求めて歴史学者鹿野政直氏、戸邉秀明氏、冨山一郎氏、森宣雄氏が発表したもの。「沖縄と日本の戦後史をめぐる管義偉官房長官の発言に抗議し、公正な歴史認識をともにつくることを呼びかける声明」という副タイトルつきである。
 浦島さんはこのアピールの集いのなかで地元からの参加者として「沖縄からアピールに思う――さまざまな『現場』とのあいだで」と題して講演を行った。ウチナー口ではじまり、「二見以北の十区がどこに位置するのか、は意外や那覇の人さえもわかっていないことがある」、とはじまった浦島さんのスピーチは、さすがに地元の住民運動をなまなましく伝える迫力と地域に根差した生活者のことばがもつ深さに、ふつふつと血がたぎってくるようだった。

 沖縄の自然破壊と基地問題は表裏一体。実は、沖縄の自然破壊は、鉄の暴風と呼ばれる戦禍より、復帰後の破壊のほうが大きい、基地負担の不満をなだめるためにばらまかれる金によるl公共事業によって自然破壊が加速しているという指摘。
 二見以北のみ防衛省予算で公民館や診療所が新築され、区長らリーダーたちは防衛省の言うことを聞いた方が得だ、ととりこまれていく。施政者のひとことで住民運動がふりまわされる。アメとムチで住民の抵抗を無力化してしまう実態・・・。
 戦後、海からの恵みで子どもたちを養ってきたおばあは「いのちの恩人を売ったら罰が当たるさあ」と、戦場のウムイを後世の人にさせてはならないと闘っている・・。
 このように地域に根差して活動している物書きは、先日、米軍に勾留された目取真俊さんと浦島さん以外に、はたしているだろうか。ふたりの真摯な取り組みをみて、現場から決して逃げない、声をあげつづける姿にこころを揺さぶられない人はいないであろう、と思ったことだった。
 今回のアピールとそれに続く会場の参加者をもまじえてのディスカッションの過程で、わたしのなかにさまざまな思いがわいてきた。
 歴史学者たちは、日本と沖縄の戦後史は同列には扱える性質のものではないと言っている。たしかに、沖縄の重層的な歴史(唐ユー、アメリカユー、ヤマトユー)とそれによる重層的な文化は、現在の沖縄そのものを形作っている。
 沖縄の戦後と、ヤマトのそれは違う、その違いを認めることからはじめなくてはならないと思う。そして、その差異を理解しつつ、分断させない知恵――、それがいまこそ求められていると思った。分断をこえていかにつながるか。辺野古新基地反対派と賛成派に分かれて地域が分断させられるのは、まさに政府の思うつぼであることを、すでにわたしたちは見聞きしている。
 ディスカッションの前に、会場の参加者に質問票が配られ、わたしは悩んだ末、満洲に兵隊として行った父の体験を書かずにはいられなかった。実際に読み上げられた質問票のなかには、会場にいる大学生が満洲からの引揚者のことに言及していたものがあり、若い人からの指摘は興味深く、うれしいことでもあった。
 国策で満洲に入植した市民も、関東軍、日本軍の兵士として行った人も、国家の政策に翻弄され、辛苦をなめ命からがらようやく帰国した。当然、帰還できずに亡くなった方々、残留孤児として残らざるをえなかった方々、幼くして失われた命はあまりに多く、父親が生涯たった1枚の戦争体験画に遺さずにいられなかったほど、過酷なものであった。それは、国家に個人がその人生を振り回されたという1点では同じではないか。
 ハンセン病療養所愛楽園で父親の絵を展示したときに、自治会長の金城雅春さんは、ハンセン病回復者と満洲からの引揚者の父親の体験とは、「重なります」と言ってくれた。国家によって「人生被害」を蒙ったという一点においては。
 しかし、引揚者は実は中国大陸に住む人々にとっては、アジアの人々にとっては、侵略者である。視点を反転すれば、立場を変えてみれば、加害者にも被害者にもなりうる。わたしたちは誰もが被害者であり、加害者であるのだ。
 沖縄の人もまた、そうである。
 しかし、ヤマトから見た沖縄だけではない、アジアから見た沖縄と言う視点からはまたまったく異なる地平が広がっても来る・・。
 あったことをナイことにするのはオカシイ。
 知らないことを知る。
 差異をみつめて理解しつつ、小さな差異を超えて、視点を反転して、分断しない、させない知恵――。
 それは、今日のように、様々な人が議論を積み重ねつつ、ひとりひとりが考え、それを継続していくこと、積み上げていくことが大切なのかもしれないと強く思ったことだった。
 浦島悦子さんの著書は、会場でも多くの人が手にとっていた。

 ぜひ、多くの方に地元から発しているリアルな声に耳を傾けてほしい、沖縄の現実を知ってほしいと思う。
 近著『みるく世や やがて 沖縄名・名護からの発信』(インパクト出版会)、『シマが揺れる』『豊かな島に基地はいらない』『名護の選択』『やんばるに暮らす』ほか。