相模原介護施設の障害者殺害事件、ヘイトスピーチ、沖縄基地問題無視に共通するのは・・。(消失しリライト)

 7月16日に久しぶりに東村山市にある多磨全生園に行った。
 それにさきだつ11日には、ハンセン病資料館を見学した。
 7月9日に開催された日本自然保護協会主催のシンポジウム『沖縄の自然と人の暮らしー名護市東海岸を事例に―』で、辺野古から報告をするために上京していた浦島悦子さんが、滞在中にハンセン病資料館に行きたいというので、急きょ出かけたのである。

 そのときに、退所者の柴田すい子さんを浦島さんに引き合わせたのであった。

 すい子さんから、16日にはハンセン病首都圏市民の会が主催する講演会があり、すい子さんともうひとりの退所者坂田啓子さんが、それぞれ「少女舎時代から社会復帰をして」というタイトルで話をするという。
 浦島さんは沖縄に帰っていたが、わたしはぜひともすい子さんの話を聞きたいとひとりでやってきたのであった。

 このような市民の会に参加するのは、ほんとうにひさしぶりのことだった。資料館が新装してからはじめて全生園を訪ねたのであるから、10年近いブランクがあったということになる。
 資料館近くにあった宿舎が消えて更地になっていたのも、驚きであった。
 かつてクロワッサンの取材で森本美代治・美恵子夫妻の部屋を訪ねた家もなくなっていた。入園者が高齢化するなか、療養所の未来構想も考えていかねばならない時期に来ているのだ。
 参加者からやはりなぜ宿舎を取り壊したのかという質問が出て、それに答える森本さんによると、空き家になった宿舎や風呂にホームレスが出没したため、園側がホームレス対策として行ったのではないか、という。
 すい子さんたちが子ども時代に住んでいた少女舎の建物は、保存が決まったらしいが、歴史的にも負の遺産として保存するべきなのは、全生園というハンセン病強制隔離施設全体なのではないだろうか。
 講演会は若い世代の参加者が多かった。スピーチした鎌田慧さんは、ほかの市民運動にくらべてハンセン病市民運動若い人たちが関心をもってくれているという。
 10年前、裁判の時に顔見知りになった支援団体の人たちの顔ぶれはなく、新しい若い人たちが運動を引き継いでいるのが頼もしく思えた。
 そのとき、鎌田さんは、ハンセン病問題を学んでいくことは、ほかの差別問題や、障碍者問題、原発問題、戦争、すべてにつながっていくと言っていた。ハンセン病当事者の声に耳を傾け続け、語り継ぎ、伝えていきたいと、あらためて思えたことであった。
 講演のあとは、福祉会館の畳の部屋でみなでもちよった食べ物をいただくスタイル、全員が自己紹介するというのがまた、なごやかな雰囲気であった。
 森本美恵子さんにも久しぶりにお目にかかったが、お元気そうであった。台所でほんのすこしの時間、一緒にサラダをもりつけたり、美恵子さんが育てたきゅうりとミョウガの和え物を皿に分けたりすると、かつては森本さんの部屋に行くとかならずお手製の漬物やりんごをむいて出してくれたことを懐かしく思い出した。
 いつも全生園に行くと一日がかりであったが、不思議と遠かったとか、長時間の移動がつらかったという記憶はない。このわたし自身が勇気づけられて帰宅するのが常であった。
 退所者の柴田良平さんとすい子さんのマンションには何度もおじゃましたものだ。
 いわゆる市民運動系のヒトではなく、なんの人脈もないわたしに、なぜハンセン病の取材をするのか?と素朴な質問を投げてきたときの、すい子さんと良平さんの顔はいまも忘れられない。わたしが答えるまでじっと待つ、その沈黙の間合いも。
 実は、偶然なんです・・。
 沖縄石垣島の音楽バンドを取材しているうちに、亡くなった方の身内がハンセン病患者だったことがわかり・・、とわたしはちょっとドギマギしながら答えたものだ。
 当時、目の前で起こりつつあったハンセン病患者の国賠訴訟とはまったく関係なく、まして、社会問題への意識からでもなく、わたしがハンセン病について知ったのは、ただ「白百合クラブ」という音楽バンドのメンバーの秘かな恋物語を取材する過程のことであったのだから。
 2005年に上梓することになる『島唄の奇跡』のほぼ前半の物語を話すと、じっと聞いていた良平さんは、書斎から1冊の本を出してきて読んでごらんなさい、といって貸してくださった。それから、情報網のないわたしに、会合が行われるときや裁判傍聴日時などについて教えてくれるようになったのはありがたかった。
 その頃、雑誌『クロワッサン』で「日常生活のなかの差別」のページを担当していたので、森本夫妻、柴田夫妻に登場してもらい、インタビューページなどにも出てもらった。一般女性誌ハンセン病をカミングアウトする実名・顔写真入りの記事が出たことは、当時としてはけっこうススンデいたのではないだろうか。
 7年間のうつ病のあと、まっさきに会いに行ったのは沖縄愛楽園の入所者、退所者の方たちであった。すい子さんに電話をして長いブランクののち新秋津駅で会ったときには、良平さんはすでに亡くなられていた・・。そう、わたしの再スタートは、彼らとの再会からであったなあ、とあらためて思い出す・・。
 さて、先日NHKの「ハートネットTV」2014年放映の再放送番組「平和でないと生きられない〜沖縄で語りだした障害者たち」を見て、浦島さんの語る講演会、すい子さんの語るハンセン病の講演会に参加して、この夏もやもやと胸にたまっていたものが、ようやくなにかのかたちになって、ことばになって表現できそうな気がした。
 (実は7月の末ごろから入稿が続き慣れない裁縫など座業が続いたためか、頸椎症になっており、パソコンに向かう時間を減らさざるを得なくなっていたのだ。おかげさまでいまは整形外科の電気治療、鍼、気功、専用クッションにも助けられ痛みはおさまりつつある。もやもやを形にしアタマを整理するためにもブログを書きたいと思い、久しぶりに更新しようとしたのだが、なんとさっき仕上げたばかりの文が操作ミスですべて消えていた!したがってこのページはリライト)
 番組は、大城友弥くんというウチナーンチュの視覚障碍者ラジオパーソナリティーが、沖縄の障碍者をたずね、戦争中のことを聞くという内容であった。
 戦争中は、聴覚障碍者は、スパイだと疑われたことがあったという。
 日本軍兵士に誰何されたとき、聞き取れず、挙動不審だときめつけられたという話は複数の本で読んだことがある。
 戦後、沖縄県民は、米軍が飛行場と米軍基地をつくるために住んでいた村を追われて民間人収容所に収容されるのだが、ここでも障碍者に対する住民の差別はあったという。戦争中は、米軍から逃げるのに足手まといになるといった理由でのけ者にされ、戦後の収容所では食事の配給時などに差別されたのだ。
 辺野古の新基地反対の抗議デモに参加していた視覚障碍者の方は「戦争中、障碍者反戦という思想はもたなかったですよ」と言った。
 90歳になる、身体障碍のある彼の兄は「兵隊に行けないのは、米喰い虫といわれていたですよ。徴兵検査で不合格になったわけですから、負い目がありました」と語った。
 それを聞いた大城くんは、衝撃を受ける。
 テレビをみているわたしたちもまた。
 家族までもが障碍者を隠す時代があったことを、若い大城くんは知らなかった。
 平和じゃないと、ぼくらは生きられない、と彼は思う。
 辺野古の抗議デモに参加している視覚障碍の方は言った。
「だからぼくは、とことん、戦争反対ということなのよ。障碍者は自らをさらけ出して、権利を主張してほしい。ぼくは未来があると思っているからデモに行くんです」と。
 兵器になる健康な国民に価値があるとみなし、兵役につけない病者や弱者を切り捨てる優生思想。
 それは、第二次世界大戦ナチスドイツが障碍者や精神科入院患者を殺害したことに、そして日本のハンセン病患者への強制隔離政策と断種手術を合法化する優生保護法に重なってくる。
 戦争とは、国民が兵器となるかどうか、国民が役に立つ「駒」となるかどうかというマインドコントロールに支配されてしまうことなのだ。お国のためにといいつつ、互いに互いを監視しあう隣組的社会。お国のためにと声高に、人を差別する社会。
 かつて沖縄名護市にハンセン病療養所建設の計画がたちあがると、地域住民たちの反対運動がおこり、暴動がおこった。集団心理が差別と結びつき、ある人々を排除しようとして暴力的な攻撃行動に向かうことは、どの時代にも起こってきている。
 先だって神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」で起こった重度の知的障碍者殺害事件は、犯人個人がそのようなマインドコントロール支配下にあったということが、なにより無気味であった。「国家のための安楽死」という、自分勝手な価値観をなんのてらいもなく口にして、残虐な犯行を実行できるというその意識。集団心理の群集も恐ろしいが、たったひとりで優生思想に憑依されていることの気味悪さは、このマインドコントロールがひょっとしていまもなお社会に生き続けているのでは、という危惧を抱かせるからだ。
 いま、社会に蔓延しているのは、
 おおっぴらの、ヘイトスピーチ
 おおぴらの、沖縄基地問題への本土の無関心。
 おおっぴらの、障碍者差別と殺人。
 おおっぴらの差別、じゃないのか。
 かつて日本人は「おてんとうさまが見ている」「神さまがお見通しだ」といった己を律する価値観をもっていたのではなかったか。
 自分だけ良ければそれでいいとする、恥も外聞もない社会の風潮を、自著『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』(講談社)の主人公・多宇郊は、日記の中で嘆いている。
「はたしてそれでいいのでしょうか」と。
 人を人でなくしてしまうもの。
 弱者を蹴落とし切り捨て排除する、弱肉強食のケモノ的論理が、おおっぴらに大手を振ってまかり通る社会。
 それは、日本人が戦争に向かっている兆候ではないだろうか・・・。