多摩美術大学で行われた韓国の羅英均さんの講演会に行ってきました。(消失しリライト)

 5月28日、橋本駅からバスで八王子鑓水にある多摩美術大学に向かう。
 バス停から、キャンパスのなかにあるホールには、もちろんひたすら歩いていくのだが、母校学習院と違ってとにかく広くアップダウンがあり、迷子になると大変なのである。それは以前、芸術学科の学生たちに特別講義と称して話をしたときにわかっていたことだ。まずは方向を定めようと、立ち止まって思案する。
 と、同じバスに乗ってきた女性ふたり、韓国から来日して講演される羅先生と同じ年代の方々が、守衛さんになにか尋ねている。
 手には、講演会の『わたしが経験した戦争――隣の国・韓国から日本の若き人たちへ』のチラシを手にしているではないか。

 いまから羅先生の講演会へ?
 では、ご一緒に、と広いキャンパスを連れ立って歩きだす。
 なんと彼女たちは、羅先生が子ども時代に通っていた旧満州奉天日本人学校奉天加茂小学校の同級生たちであった。
 エエッ、実は、昨年他界した父親も満州に兵隊として行っておりました、『噫、牡丹江よ!』という引揚者の方々を描いた油絵を遺しているんです・・、と話すと、おふたりは牡丹江は海からはだいぶあるわよ、などと答えてくれる。

 実は、多摩美大のある橋本には、現地除隊した父親が、終戦前に少しだけ勤務していた『満洲生活必需品株式会社』の女性事務社員の方が住んでいることがわかり、あすにでも連絡するこころづもりでやってきたのであった。


 偶然とはいえ、『満洲』の暗号が飛び込んできて、天の啓示が降ってきたように思えてくる。移動時間の長さに疲れてはいたが、次第に気持ちが高揚してくる。
 三人でなかば息を切らしつつ会場のドアを開けると、もう芸術人類学研究所所長の鶴岡真弓がマイクをもって学生たちに話しているところだった。
 わたしたちが空いている席を探していると、鶴岡さんは「あ、羅先生の同級生の方々、沖縄の研究をしている吉江真理子さんが続々到着です」と紹介するので、おふたりはどんどん前の方に進んでいく。
 わたしはまんなかの端席があいていたので、着席した。
 いちばん前の席のあたりには、加茂小学校の同級生たちが集まっているらしく、ふたりは仲間たちと感動の再会を果たしているようであった。

 羅先生の講演内容は、なかなか刺激的なものだった。
 1929年、清朝満洲奉天(現在の中国、瀋陽)に生まれ、奉天尋常小学校に通い、ソウルの梨花女子大学に入学するころ、太平洋戦争が勃発。
 学校ではハングルではなく日本語が強要された。創氏改名が行われ、韓国の姓は、日本式の名字に変えさせられた。悪口の最上級のことばが「お前の姓を変えろ」であったというエピソードからすると、創氏改名はいかに屈辱的なことだったかがわかる。
「韓国人でありながら、16歳まで日本人だったという二重性」は、複雑な感覚をその内面に抱かせるものだろう。わたしは沖縄の歴史を重ねないではいられなかった。
 沖縄もまた、ウチナーユー、唐ユー、アメリカユー、ヤマトユーと重層的な歴史を背負い、いままた米軍基地軍属の起こした強姦殺害事件を発端に、新基地反対運動がおおきなうねりを見せて6月23日の「慰霊の日」を迎えている。
 羅先生が大学在学中、日本の敗戦によって韓国は「解放」されたが、独裁政権が続き、激動の時代を重ねて今に至っている。
 青春時代を戦争に翻弄された羅先生は、梨花大学・大学院で英文学を学び、韓国英語英文学会会長、現代英米小説学会会長、シェークスピア学会編集理事を歴任している。ハングル、日本語、英語の三つの言語と文化に深い理解のある英文学者、その波乱万丈という月並み表現でくくるにはあまりに苛烈な体験にもとづいた考察が、いかに深く、かつ客観性に秀でたものであるか――。多くの人に『わたしが生きてきた世の中』(言叢社)を読んでいただきたいと思う。

 講演会でメモした言葉をいくつかあげておきたい。
 「波乱万丈の時代を経て、韓国は危機を乗り越えてきました。歴史からの教訓は、どんな時代であっても、自分を見つめ自分の生を生きていかなければならない、ということです」
「日本語で育ち、日本語を読み、英語を学び、ハングルを終戦後に学びました。自分のことばは命と同じもの。自分の文字を愛してください。それもいのちです」
 講演後は、羅先生や加茂小学校橋本学級の同窓生の方々と話をしながら会場を移動し、芸術学科の研究室で学生たちとともに語り合った。
 そのときの羅先生の話がまた、実に示唆に富んでいた。

 もし会場での質疑応答時間がとれていたらなあ、と少なからず残念に思えたことであった。これは多くの学生にも聞いてほしいと思えたからだ。
 日本に対する韓国の若者の感情は良くなっているのか――、という質問に対しては、
「隣国同士は関係を保っていくしかない。同じ事なら喧嘩をするのではなく、仲良く協力しあう方が、相手のためばかりでなく自分のためにもなる。そのためには相手をよく知ること。日本は韓国を、韓国は日本をよく勉強するべきだというのがわたしの考えです」
 韓国の時事コラムに「遠まわしだが毒舌で」書くのだという、勇気ある羅先生。
「こわいですよ、ひっぱられるのは。それで一週間はおとなしくしていました」
 韓国には『学兵』という制度がある。名目上は志願兵であっても、強制的に兵士として徴兵される男子学生たちを送るため、全校生徒が校庭に集まって壮行会を行ったとき、男子学生たちは悲鳴のような叫びをあげていた、と羅先生は語った。
 なんと言っていましたか?とわたしが聞くと、その内容は覚えていない、悲鳴のような叫び声がいまも忘れられないとおっしゃったのが印象的であった。建前ではきっと優等生的なことを言わざるを得ない彼らが、こころの叫びを発した、その生のリアルな本音の波動・・。
「学生たちはみな、お国のために、と教わっていました。九州の記念館で(知覧特攻記念館?)、特攻基地から飛び立った学生たちの遺した遺品を見たことがあります。彼らの言葉(兵の遺した手紙など)は、けっしてお国のために、ではなかった。お母さん!ということばは残っています。最期のことばはは、お国ではなく、お母さんだった。ほんとうは生きて帰りたい、ということですよ。日本語で教育され臣民の誓いを立て、洗脳されていたはずの学生たち。ところが、そうではなかった。最期は、みんな人間の感情を叫ぶ。それはもう、叫び声と言うより、絶叫ですよ!これが本当の姿だったんだなと思います」
 学生たちはいわゆる弾除けである。新兵は部隊をまもるために前線に出されてしまうことが、学生たち自身にもわかっていたのだ。それを送り出す少女たちにもまた・・。学徒たちの声は、断末魔の叫びのように少女たちには聞こえていたのかもしれなかった。
「戦争はダメ。戦争がないから、みなさんは幸せです」
「戦争は本当に罪だと思います。人類の歴史上、一度も戦争がなかったことはない。個人として戦争に反対する気持ちなら、社会がそういう方向にいかないよう尽くすべきだと思います。戦争は、人が人として生きていくことを許さないのですから」

 羅先生を囲んで、学生たちが順番に意見を述べた。
 ひとりの学生が、講演会場でも同じ質問をしたのだが、ニュアンスが違って受け取られてしまったので、と話し出す。自分は書くときに無力感に襲われる・・。自分の書くものは役に立つのかどうか、なにかのためになるのかと思うと・・羅先生は書くときに無力感にとらわれることはないですか?すると、羅先生の答えがふるっていた。
「何かのために書くのではないの。文章を書くときに世の中のためになると思ったことはないの。思ったことをどう表現すれば一番いいか、しか考えませんよ。そりゃ、怖いですよ、コラムを書いて警察にひっぱられるなんて」
 別の学生の、いわば若さゆえの自己の世界を基準にした「感想」に対しても、なかなかに深い本質的な答えが返ってきた。わたしは羅先生の、だれに対してもまっすぐ向き合う「教育者」としての姿勢に打たれた。
「いったんうしろにひいて客観的に見ることが大切だと思います。テーマを客観視しないとモノにならない」
「生きていくうちには問題がおこってくる。いったん突き放して客観化して考える。日韓関係においても、韓国人が感情を抑えて客観視するべきだと思うことがあります。なんでもそうです。そうでないと何にもなりません。国籍を超えて何でも客観視する態度をもつこと――、誰もが、自分に甘く人に厳しい。これでは日韓関係と同じ。これではダメだと思うんです」
「韓国人のことをわたしが悪くいうと怒られる、日本をほめると怒られる。しかし、そういう幼児的段階を卒業すべきだと思います。相手と自分を客観視すべきだとわたしは思います。親日だといわれても平気。わたしは、親日でもないし嫌日でもない。正直に見ようと思っているだけです」
 ちょうどこの講演会の前に、広島を訪れたオバマ米大統領が広島で被爆者たちと会い、演説するという歴史的な出来事があった。
 羅先生の講演会は、まさにそのときのオバマのことばを思い出させた。
 テレビにくぎ付けになり、28日付で新聞に掲載された英文と日本語訳付きのオバマのスピーチ原稿を読んで、わたしはうなったものだ。
 なんとシンプルに、本質的なことを語っているのか。
『どれだけたやすく、私たちは何かより高い大義の名のもとに暴力を正当化してきたでしょうか。あらゆる偉大な宗教が、愛、平和、公平への道を約束しています。しかし、いかなる宗教も信仰が殺戮の許可証だと主張する信者から免れていません。国家は人々を犠牲と協力で結びつける物語を伝え、顕著な業績を可能にしながら台頭します。しかし、それらの物語は、幾度となく異なる人々を抑圧し、その人間性を奪うために使われてきました』
 しかし、この物語、ヒストリー、histoireを、わたしたちは子どもたちにdifferent storyとして伝えることができる、と。
「we can tell our children a different story,one that describes a common humanity ,one that makes war less likely ,and cruelty less easily accepted.」
 オバマ氏が、芸術と破壊(戦争)とは眞反対であると述べているように、わたしには思えた。それも、衝撃であった。なぜなら、戦争画というものについて、ここ多摩美で学生さんたちに話をさせてもらって以来、このことをこころの奥でずっと考え続けているから。また10月の父の三回忌の頃、山本義一の戦争画と風景画を多くの方にふたたびみていただく展覧会を決行しようと、ひそかに心に決めていたから。
 米国の大統領が、たとえ、核爆弾のスイッチを携えていたとしても、これだけのことを世界に向けて、大統領という立場上の制約のなか、語ったのである。
 その憂いを含んだ、ときに海のように深い慈愛と、強固な意志をこめた黒きダイヤのようなまなざし、そして被爆者との生身の触れ合い・・。
 被爆者の声は聞こえなくなっても、その memoryはchangeを可能にする、そうオバマは言った。
わたしたちは、evil悪をなす能力をなくすことはできないかもしれない。
 しかし、核を保有する国は恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追及するcourage 勇気をもたなくてはならない。
 オバマは確かにそう言った。

 courage 勇気。moral awakening 道徳的目覚め。
 実にシンプルで真摯、まっとうで本質的なことばであった。

 人を悪とみなし、恐れおののく人は、武器を必要とするのかもしれない。
 しかし、人を善と信じることには、勇気というもっと強力な武器が、必要なのだ。
 宗教や芸術や道徳、世界中のあらゆる知性が一瞬にして、善から悪に反転するのと同じに、悪もまた善に反転する。
 わたしは、それを信じる。
 青臭いcourageということばが、実に新鮮に聞こえた瞬間であった。
 わたしは確かに勇気をもらったと思う。こうして勇気ということばを使えるほどに。

 そして、羅先生のほんものの courage 勇気に、いまさらながら脱帽!である。
 羅先生の教育者としての深いまっとうな愛と勇気を、学生とともにこのわたし自身も受け取った気がする。
 

言叢社の編集者と羅先生、鶴岡さん 
 
母校学習院の大先輩である、元江戸東京博物館長・児玉茂幸氏よりこのブログの感想をお葉書でいただいた。
「韓国の羅先生の体験を通じた日韓両国の人々が目指すべき道など大変有意義に読ませていただきました」
 ここに引用して謝辞の代わりとさせていただきます。