多摩美の特別講義として話させていただいたこと。学生たちへの手紙 その9

 藤田嗣治が戦争絵画を描いていたことに驚いた学生は多かった。
 わたしもそのひとりである。
 残酷で悲惨な戦争絵画をあまり見たくない、目を背けたいというのが、ほとんどの学生たちの気持ちであったろう。しかし、
「戦争に目を背けたい気持ちでいっぱいだ。しかし、戦争を知ることによって同じ苦しみを過ちを二度と繰り返さないように努めたい」
 という感想を寄せていただいた。6月23日の沖縄慰霊の日を前に、少しでも若い世代の方に沖縄について戦争について考えてもらうきっかけとなればうれしく思う。

 戦争絵画について感想と質問をお寄せいただきました。
 みなさんの前で話す直前に戦争絵画について知ったので、わたしも今回いろいろ調べてみましたが、これはアートというものの本質を考える面でもなかなか重要な問題を示唆してくれるように思いました。 
 まず、質問にあった藤田嗣治が「日本政府に頼まれて『アッツ島玉砕』を描いたということですが、他に政府に依頼されて描いた有名な作家はいるのか?」についてですが、東海大学鳥飼行博氏のサイトを参考にすれば、1937年日中戦争当時に、大日本陸軍従軍画家協会なるものが発足。
 1938年には従軍画家を戦地に派遣し、1939年には200名の画家が従軍しています。陸軍報道部が『国民の士気を鼓舞するよう迫力ある大画面で誰でもわかる写実的な絵を描くこと』と命令しています。軍の要請とはいえ、従軍画家になるというのは自ら志願する画家が多かったということです。この流れは「『事変』を『聖戦』に作り変えていくプロパガンダの有効な宣伝媒体として軍部が絵画をとらえた」という、軍が芸術を利用しようという思惑と、さらには芸術家側の「自己の才能を咲かせる場として、自己実現の場として」利用しようという思惑の両方が一致した・・・、とはわたしの考えです。(これは日本に限ったことではなく、第一次大戦・第二次大戦ともに連合国側でも戦争絵画を画家に描かせています。第一次大戦中、英国は海軍従軍画家プログラムを採用して国威高揚に成功したようです)
 鶴田吾郎、宮本三郎小磯良平藤田嗣治、中村研一、山田新一らは、「芸術報国運動」の一環として従軍画家になり戦争絵画を描いた人たちです。ほかに脇田和川端龍子、田村孝之助、向井潤吉(戦後は戦争協力を反省)、清水登之、伊原宇三郎、花岡萬舟、福田豊四郎、吉岡堅二らも軍の要請で描いています。
 直接的に戦闘シーンを描いたのではない画家もまた、戦争絵画を描いたことと同じではないか、という見方があります。従軍画家だった山田新一が戦後述懐している言葉には興味深いものがあります。
 『軍部に利用されたことは軽率で恥ずかしいことに違いないが、巧妙に逃れた画家たちを名誉、権威よばわりするのはおかしい』と言って、富士山や旭日を描いた横山大観を暗に批判しています。日本精神を象徴する富士は『八紘一宇』のシンボル、写実的な戦闘シーンでなくとも、国威高揚になる・・。
 その山田自身、「芸術家はお国に役立たないという評価を変えたかったと当時は考えていた」とも述懐しています。藤田の『アッツ島玉砕』は、死体累々たる悲惨な米軍写真を参考にしたようですが、全滅ではなく最後まで果敢に戦う日本軍という構図に変更していました。公開されると、賽銭箱が設けられ、殉教図として拝まれたことは、新聞記事でもご紹介しましたね。藤田は「絵画が直接にお役にたつということはなんと果報なことだろう」と発言していたそうです。
 芸術家は、国家や軍部の価値観からどれだけ自由になれるものなのか。表現者すべてがその時代の評価にふりまわされずにいられるか。
 わたしは2005年に『島唄の奇跡』(講談社)を出しました。これは、石垣島のご長寿音楽バンドのことを描くつもりが、奇しくもハンセン病に対する国家のマインドコントロールによって、いかに元患者とその家族たちの人生がゆがめられてしまったかを、個人の立場にたって描くことになりました。
 国賠訴訟勝訴によってハンセン病への誤った国策を国が認め謝罪しても、いまもなお隔離政策の後遺症によって、わたしたちのなかにはハンセン病患者への偏見が残っているなあ、と実感することがまだまだあります。
 ハンセン病感染症でも遺伝病でもないのに、それを隠して恐ろしい不治の病だとしていたのはほかならぬ医師でした。おりしも戦争に向かう日本の富国強兵政策と、ハンセン病者を隔離して研究したいという医師の思惑が一致したからだとしたら、なんとおそろしいことでしょう。
 芸術家が、絵の具の配給がなくなるより従軍画家になったほうが、思う存分芸術を追求できる、自己実現できると考えるーー。医者がハンセン病患者たちを国家のお金で隔離して研究できると考えるーー。それを芸術のための芸術、医学発展のための研究といっていいのだろうか。そこにはいちばん弱い立場の命に対する視点が欠けているのではないでしょうか。
 芸術家も研究者も表現者もみな同じ。わたし自身もつねに問うていかなくてはならない問題だと思います。
 さて、もうひとつのご質問です。
 うつ病まっただなかのときには、わたしは社会とは没交渉でした。友人や仕事関係の方々からの連絡をすべて絶っていました。ほんとうに人と会いたくないし、電話すらいやでした。郵便物もほとんど見ませんでした。しかし、7年たって不思議なことに、なにか兆しのようなものがありました。自分自身がこのままではいけないと感じてから、良きドクターとの出会いがあり、食事を変えたことで一気に変わっていったと思います。だいたいろくな食事をとれませんから、うつ治癒に効果のある葉酸を含んだ自家製青汁(小松菜の葉を手でちぎり、バナナとりんごなどを加えてジューサーにかけるだけ。火も包丁も使わないでできます)ですぐに効果を実感しました。からだが元気になると、こころの体力ももどってきます。(ただいまうつ回復本を書いております)
 あとで、ずっとわたしのことを気にかけていてくれた人たちのことを知って、人の『思い』の力を感じたものです。「信じて待つ」ということの大切さ。それはかならず相手に伝わるのだということ。そういう友人がいてくれることが伝われば、かならず力になります。意念とか祈りみたいなものは、ほんとうに闇に射すひとすじの光明だと思います。そのような質問をしてくださって「ありがとう!」

追伸
  先日、市川市文化ミュージアムで開催中の『山下清とその仲間たちの作品展』を見てまいりました。
 山下清は、戦争画の貼り絵を残していました。昭和24年、放浪の旅から「八幡学園」帰ってきて、記憶をもとに(いつも帰ってきてから思い出しながら貼り絵にする)『大東亜戦争』と4年前の東京大空襲で見た『東京の焼けたとこ』を制作しました。
大東亜戦争』の」貼り絵は、日本軍とアメリカ軍が野原で戦っている戦闘シーンです。日の丸と星条旗のそれぞれの国旗があるので、画面左が日本軍で、右側がアメリカ軍を描いた戦争絵画だとわかりますが、なんだか書き割りのようなフラットな構図で、歌舞伎の幕にでもかかっていそうな絵柄に見えました。式場隆三郎実弟が解説を書いている図録のとおり「源平合戦」のような印象です。自身が遭遇した東京下町の焼野原の風景は、なまなましく悲惨な焼跡を表現していると思いました。
 これは、まさに戦争というものが、世間の価値観を押し付けられていない清のような知的障害をもつこどもたちにどう見えたのか、端的に表していると思います。
 軍や国家の要請で戦争画を描く画家たちには、国家体制側に立っての思惑がある、なんらかの意図を絵画におとしこんでいる。ある意味ではプロパガンダとしての役割を果たしているわけです。ところが、清にとっては、戦闘シーンには感情や下心がこめられていない。「源平合戦」のごときのどかさなのでしょう。一方の東京大空襲は、実際に夜に焼跡を歩いて帰ってきたときの恐怖や不安感が、リアルに描かれている。
 清の眼はくもりなき庶民の視点でもありますが、そのまなこをマインドコントロールできるのも芸術家であるという現実を、思い知らされるようでした。
 清の仲間たちの作品がすばらしいです。
 重度の知的障害児でてんかんの発作のある乱暴な沼祐一君のプリミティブ・アートの不思議なこと。その色彩、その構図と描かれる花や動物の奇妙な形態。
 絵のなかに奇妙な人間が登場すると、かならず重度の発作を起こしたことから、「脳波検査なき時代の発作発見のてだてとなった」との園長夫人のことばは、絵画療法を思わせます。
 この八幡学園の学園標語は「踏むな、育てよ、水そそげ」です。
 わたしたちすべてが友人にも、自分のこころにも、このように接したいと思いました。