学生たちへの手紙 その8

 人はなぜ戦争をするのか、なぜ争うのか。
 理不尽な人間の行いに対して、率直に疑問を抱いている学生のことばには、若い世代に対するこちらの勝手な思い込みをぬぐいさってもらえた。
 学生たちはそれぞれの感性で、しっかりと戦争絵画や芸術の意味するもの、人類が抱える矛盾のようなものを受け止め、考えくれている。すなおにうれしかった。引用しておきたい。
 『戦争や天災のような存在、事象も、人間の存在の外にある未知のプログラムから降りてきたものであり、(ある人々は「神」と形容したりするやつ)例えば、3.11のような事象に人は不条理や不公平を感じたときに、何かを下してくるのではないか。
 その下りてきたものを人類全体と共有しようと外部に向けて放ったとき、「芸術」になるのだと感じた。
 もしそうだとしたら人間は全員、この世に生きていたら、芸術である』ーーある学生の感想文より抜粋


 芸術とはなにか、人と人が争いあう戦争とはなにか。
 わたしもまた、そのことを問うております。
「人間同士が争うことに納得がいかない。その言葉にならない思いをなんとか表現しようとしたときに、山本義一のように筆を取り、人類と共有しようとするのではないか。その人間の姿が『芸術』であると思った」という感想をお寄せいただきました。
 すばらしい表現だなあと思います。そのように解釈してもらえれば、山本義一も本望でしょう。このようなとらえかたをすれば、戦争絵画を描いた従軍画家たちの気持ちもまた、別の観点から見ることができそうですね。
 国家の要請で、軍の命令で、戦地に赴き、国威高揚のために戦争画を描いた芸術家たちを一方的に、国家のプロパガンダの手先となったとも言い切れないかもしれません。
 ひとりひとりの画家たちには、それぞれの戦争観があり、矛盾を抱えながらも戦争をなんとか表現しようとしたわけでしょうから。多くの戦争絵画を描いた画家たちが、戦後はそのことを恥じたり、反省したり、あるいはひらきなおったり、贖罪の気持ちから描くものが変わっていったりしています。人は過ちも犯すし、矛盾も抱いて生きていかねばならない。
 しかし、できれば、常に客観視する視点を持っていたいとわたしは思います。
 その時代の価値観から個人はどれだけ自由になれるのか。
 歴史を振り返ってみたときに、その時代時代の価値観はがらりと反転するのであれば、つねにそのような「反転」の視点をもっていたいなあと思います。
「人間や人類とは異なる存在が人間の心に存在する弱さに入り込み、人間同士を戦わせているのでは?と思うほど納得がいかない」というように、いっそ「たとえば宇宙人であるとか」「ある人は『神』と形容したりするやつ」「未知のプログラム」からの視点をもてれば、ずいぶん違ってくるかもしれませんね。
 だいたい、個人のレベルでも、国家のレベルでも、あるいはその上位概念のレベルでも、ものごとを矮小化したときに、争いのネタをみつけるような気がします。
 沖縄戦のとき、いよいよ米軍が迫ってきたときガマ(壕)の中にいた人たちは、集団自決するかどうか、死か生か、選択を迫られました。自死するのを拒んでガマを出た人もいます。みんなで投降しようと捕虜になって生きる道を選んだ人たちのことを、丸木位里・俊夫妻の『沖縄戦の図』でみなさんに紹介しましたね。
 いま生きている沖縄県民は、自死しなかった、戦争から生きのびた人たちの子孫であります。私もまた、父親が戦争で死ななかったから生まれたわけです。結局、投降しても『辱めを受ける』こともなく、惨殺されることもなかった・・・。
 争いか平和か。生か死か。究極の選択を迫られたとき、どう考えるか。
 客観視する力、反転の力は、わたしたち人類に与えられた知恵かもしれませんね。
 客観視するための訓練が、描いたり書いたり、表現すること、アートなのかも・・。