恩師・篠沢秀夫先生にお目にかかってきました。

 昨日は、母校、学習院大学文学部同窓会 講演会があり、都心の中で豊かな自然の残るキャンパスに久しぶりに向かう。血洗いの池にはおりしもアジサイの花が咲いていて、昔はなかった橋がかかり、梅雨の晴れ間の花見を楽しめた。

 百周年記念講堂で、哲学科卒業で現在国学院大学の教授である藤澤紫さんの『ジャパニーズ・ビューティー美人画』に見る日本人の美意識』というタイトルの講演を拝聴し、そのあとの懇親会にも出席する。

 百枚以上の画像を紹介しつつ、講演をするということの大変さは、先だっての多摩美の学生さんたちの前でお話しさせていただくときに実感したものだった。
 藤澤さんは、会場の方たちに質問し挙手してもらい、話を進めていき、つぎつぎといわゆる浮世絵に表現されている美人画を紹介していく。
 そのソフトな語り口、パワーポイントを上手に活用するさまは、実にスマートで、よどみなく、こういうふうにやるのかあ、とわたしはとても勉強になった。
 美人とは?美人画とは?
 江戸時代の美人とは?
 描かれている美人の絵を通して、実は対象者と描いている作者の「こころ」を知るーーというテーマは、先日『山下清とその仲間展』の図録解説で読んで、気になっていたことでもあった。
 『20世紀の美術は、こころを描く、ということが特徴だ」というのである。
 しかし、藤澤先生の講演を聞いてみれば、江戸時代の歌麿北斎も、そこに描かれているのはその美人がどのような気持ちでいるのか、どんな状況なのかを、まるで記号のようにさまざまな小道具を描くことで表そうとしている。
 しかも、「ひきめ鉤鼻」と呼ばれるあまり表情のない日本的な目鼻立ちの顔でも、能のおもてのように、角度や微妙なしぐさで美人のこころを描き分けているのだ。
 葛飾北斎の『夏の朝』には、手鏡に顔をうつして髪をなおしている若い女の後姿が描かれている。顔は手鏡に映っている。
 女の足元には、歯を磨くためのセットをのせた鉢と朝顔の花。
 そして、右手に少し見えるのは、掛けられている着物、しかも男物だ。
 これらの情報で、時刻は朝。
 この若い女は新婚の夫のために朝の歯ブラシセットに、今摘んできた朝顔を添えて、「自分も朝顔のようにきれいにみえるようにと」鏡を覗き込んでいる・・・、という「若妻のこころを表現する」美人画なのだとわかる。
 20世紀の絵画だけではなく江戸時代もまた、かきては対象のこころを描くことが、優れたアーティストたちが追及することなのだ。
 肖像画を観たときにわたしたちがひかれるのは、やはりその絵の人物の気持ちがこちらの胸に迫ってくるような、その性格や心までもがわかってくるような気がするからではないだろうか。それは書かれている人物と同時に、画家の気持ちをも二重に読み取れるという点で、絵画は実に豊かな表現方法だと思った。
 講演に先立ち、名誉会長の篠沢秀夫先生が、奥様の礼子さんとともに登壇された。

 篠沢先生は、文学部同窓会発足の前に難病ALSを発症されているが、今回で7回目になる同窓会にもこのように出席してくださっている。
 車椅子で人工呼吸器をつけていても、コンピューターと連動させて先生自身の声で話をすることができる。懇親会の席にはその研究担当の方も先生に付き添っていらした。
 病気を得てからも先生の創作意欲は衰えることなく、次々に本を出版されている。今回も新刊が会場で紹介されていた。
 先生の『古代のこころで生きる』姿勢には、まさにこころうたれる。
 篠沢先生は自らが病とともに生きていくありのままの姿をわたしたちに見せてくれることで、わたしたちにおおいなる力と勇気を与えれくれる。
 自分のうつ病など、このように生きている先生の前ではたいしたことはない、と思えてくる。いつも先生に会うと、無言の励ましをいただくように思う。
 いつか先生がおっしゃっていた、学生は樹である、だから家の樹にも公園の樹にも名前をつけている、ということばを思い出す。
 篠沢先生の生徒として学生時代を過ごしたこと、先生の実験文体学を応用してマルグリット・デュラスの卒論をかいたことは、わたしの誉れである。
 『島唄の奇跡』を第二の卒論です、とお渡ししたら、雑誌に書評を書いていただいたことも懐かしい思い出だ。
 篠沢先生、どうぞお元気で。
 わたしも先生に読んでいただく第三、第四、第五の卒論に磨きをかけます。