辻邦生先生の展覧会、講演会に行ってきました。

7月22日土曜日、学習院大学史料館講座が開催された。
 作家にして精神科医 加賀乙彦先生の講演会、「辻邦生の出発――『夏の砦』」というタイトルである。
 文学部フランス文学科の恩師、辻先生との思い出を語られるというので、学習院創立百周年記念会館に出かけて行った。

 1956年、辻先生が32歳の時、フランス政府保護留学生としてパリに向かう船のなかで、当時28歳の加賀先生と出会ったときのエピソードが実におもしろかった。
 辻先生は、妻の美術史家 佐保子さんが留学試験に合格してフランス政府給付留学生として飛行機で向かっているというのに比して、ご自身は保護留学生という資格のため支給費用が少なく、四等の船底の船室で海を渡ることになったのだという。
 ぼくの部屋は海の下です。窓からは海しか見えません、と話したという辻先生。
 それゆえ日中はデッキで本を読む毎日、そのおかげで、東京拘置場医学部技官となって東大附属病院精神医学および犯罪学研究のためフランスに留学する加賀先生と出会ったのだった。
 パリについたあと、辻先生と佐保子さんは高熱を出して狭いアパルトマンの部屋で寝込んでしまう。
 それを救ったのは、依頼を受けて訪問した加賀先生であった。
精神科医とはいえ、薬をたくさんもっていけたので」
 部屋に行くと、ふたりはベッドでなく床に並んで寝ており、肺炎にかかっていた。
「ふたりに、『お尻を出して』といってペニシリンを筋肉注射したわけです」。
 すぐに翌朝には熱が下がったと佐保子さんから依頼者に連絡があって、加賀先生は「はじめて打ったペニシリンの威力を知った」のだった。
 ヨーロッパに滞在中、辻先生は佐保子さんから幼少期の名古屋正木町の家の話を聞き、このとき書き留めたものがのちに小説『夏の砦』に結実していく。
 講演会場の百周年講堂には、大きなスクリーンがかけられており、このパリ滞在中に街角で撮影した加賀先生、辻先生夫妻の写真が大写しになった時には、おおっと声をあげてしまった。
 黒のトレンチコートにネクタイ、フィフティーズ風の髪型をしてポスターらしき紙筒を抱えた若者、加賀先生。まんなかにベレー帽、仕立てのいいラグラン袖のコートを着た佐保子さん、辻先生は佐保子さんと同じく左手をポケットにつっこんで、ノーネクタイにセーターというラフな雰囲気でジャケットを粋に着こなしている・・。
 背景には「vin de postillon」という看板が見えるので、「馬車の御者」という名前のワインの店だろうか、梨のような果物が箱詰めされて路上に並べてあるので、市場の一角なのかもしれない。
 若くて才能をひめた三人の姿が、それぞれの未来をしっているわたしたち会場の全員の感動を呼ぶ。
 三人の出会い、これがその原点であり、辻先生と加賀先生の友情のはじまりの瞬間であったのだ。

 3年間のヨーロッパ滞在後、辻先生が1965年に学習院大学文学部フランス学科で講師をつとめるようになったのは、佐保子さんの叔父にあたる鈴木力衛先生のご縁であったというのも、今回の講演会と資料館の資料ではじめて知った。
 わたしが1年の時、力衛先生のご葬儀があったことを覚えている。
 そして、辻先生は1975年、50歳の時、東京農工大学教授を辞められて、学習院文学部フランス文学科教授に就任。
 わたしは翌年に仏文科を卒業し、2月いっぱいはじめてのフランス旅行をして、卒業式に出席できなかった。
 3月の謝恩会には出席しようと大学に行き、謝恩会場のある新宿まで行く電車の中で、辻先生に声をかけていただいた。
「あなたの卒論を読みましたよ。よかったら、出版社に紹介しましょう」
 卒論は、篠沢秀夫先生の実験文体学の理論を応用してマルグリット・デュラスの4つのテキストを分析したものだった。
 3年のときに講師の佐貫健先生に『モデラート・カンタービレ』、そして4年のときには福永武彦先生の『夏の夜の十時半』のデュラスの授業を受けて、すっかりデュラスの両義性のある言葉に魅かれてしまった。
 佐貫先生が太目のオペラ歌手のように声を響かせつつ音読したデュラスのテキスト。
 佐貫先生はほんとうにコワイ先生で、単語の意味を答えられず大声で詰め寄られては悔し泣きする女子学生もいたほどで、緊張の糸が張り詰めたようなだれも気を抜けない授業だった。
 そんな、テキストを味わうには程遠い恐怖の授業であったにもにもかかわらず、フランス語のなんという音楽的な、そして映像的なうつくしさ。
 両義性のある言葉とイマージュに、耽溺してしまいそうなほどひき込まれた。
 しかし、一方ではデュラスの作品にどこか危険な文学の匂いをも感じていた。
 このまま、デュラスの「気分」に浸っていてはアブナイ。まだ男も知らないというのに「アンニュイな」人妻の倦怠に沈んでいるようなものではないか。
 デュラスの作品を、いや自分自身の心の奥を客観的にみつめるために、わたしは卒論にデュラス作品を篠沢先生の実験文体学の理論を使って分析することを選んだ。
 篠沢先生の授業ではジャン・ジュネの『女中たち』のテキストを分析するというものがあり、テキストのみを対象とするというのも気にいった。歴史背景やおいたち、人物との交流、本人へのインタビュー記事など、もちろんいくらでも研究する方法はあるが、それらの情報に頼らず、テキストの中で使用される単語の数を数えて構造を分析する実験文体学の手法がとても魅力的に思えたのだ。
 時間もなかった。もう4年生になってのぎりぎりのスタートだった。
 篠沢先生に相談することもなく、ただひたすら4作品のテキストの単語をノートに「正」の字を書いていって数えていくという、いまならコンピュータで瞬時にできるような、気の遠くなる作業をもくもくと続けた。
 頻度の多い単語がもつ意味。その作家がその単語にこめたイマージュ。結果的に、それは作品の構造をあらわすものになる、はずである・・。
 そしてその結果は、というと、驚くことに4つの作品に共通する構造がうかびあがったのであった。
 口頭諮問のときのことは覚えている。
 わたしの担当教授は篠沢先生と白井健三郎先生。吉田加南子先生もいらした。
 緊張のあまり、カチカチになって受け答えをしていると、ガラッとドアが開いて、福永先生が入っていらした。
 福永先生のデュラス講読の授業のあと、思い切って先生に近づきデュラスを卒論に書くつもりだと話すと、福永先生は「では、口頭諮問のときには、わたしも行きましょう」とおっしゃってくださった。しかし、そのあと授業はずっと休講が続いていた。体調を崩されたことはもれ聞いていた。
 福永先生がまさかあのときの約束を守って、一学生のために授業もない日にわざわざいらしてくださるとは。
予想もしない展開に、わたしは棒っきれのように立ち尽くすのみ。
 当然ながら教授陣の席は用意されておらず、座る椅子がないとみるや、福永先生は「ああ、席がないですね」というような感じで、またドアをあけて帰ってしまったのだった。たぶん、そのときなぜ福永先生がいらしたのか、ほかの先生方にもわからなかったのだと思う。
「あっ、福永先生!!ありがとうございます」と、なぜ声をあげなかったのか。
 あるいは担当教授の篠沢先生と白井先生に福永先生がいらしてくれるかも・・、と前もって伝えておくぐらいの機転がきかなかったのか。
 でも、わたしはまさか福永先生がほんとうに約束通りいらしてくださるとは、これっぽっちもおもっていなかったのだった・・。
 のちに、沖縄の仕事をすることになって、池澤夏樹さんとお会いしてまず話させていただいたのが、このときのお父上とのエピソードであった。ほんとうに悔やまれてならない、と・・。池澤さんは笑いながら「あの世で会ったら伝えますよ」と言ってくださったのだった。
 口頭諮問試験の会場では、福永先生が去った後、篠沢先生が『ブルトーザーでダーッとやるように』と評したわたしの卒論に対する質問が続いた。
 吉田先生から、単語の数による分析ははたして、どんなテキストにも可能なのか、というようなご意見があり、篠沢先生と吉田先生の議論が繰り広げられるのを、ぼ〜っと聞いていたような気がする。
 しかし、篠沢先生が「わたしはこの卒論を、わたしの悪魔祓いとしたい」という文を読み上げてくださり、文学とは何かという大テーマの片鱗について(前ふりで触れていた)学生なりに考えたことを評価してくださった・・ようであった。
 そして、デュラスに耽溺しそうな自分から一歩距離を置いて、対象としてつきはなして作品を客観視できたことで、わたしはまさにつきものが落ちたかのように、なにかから卒業できたのだった・・。
 そうそう、辻先生に声をかけられた、卒業謝恩会に向かう電車の中のことである。
 辻先生がおっしゃったのは「詩も、同じように分析できますか?」ということだったと記憶している。
 それは、今だったら少しはこたえられるのだが、そのときはあいまいに受け答えするので精いっぱいであった。
 東京農工大学を辞められて辻先生が4月から仏文科の先生になられることは知っていたが、悲しいことにそのときわたしは辻先生のご本を一冊も読んでいなかったのである。
 そして、4月からは就職難のなかようやく採用試験に受かった、出版社とは名ばかりの出版社に就職が決まっていたわたしは、せっかくの辻先生のお申し出にも、反応しなかった。
 なぜ、幸運の女神の前髪をつかまなかったのか。
 いまでも、思い返しては、ぼうっとしていた自分を情けないような気持ちで思い出す・・。

 さて、7月22日の加賀先生の講演会には、殿下もご臨席になった。
 その後、史料館に場所を移して行われた懇親会でも、殿下は参加者と親しくお話してくださった。
 たぶん参加者はみな、たちさりがたかったのではないだろうか。
 夏のまだ日差しの強い夕刻。
 西日を浴びながら木造の白い史料館の建物から出て、殿下のお乗りになった車をお見送りすると、前庭で加賀先生を囲んで人々が談笑している。
 ちょっと人の輪が崩れて、ふっと肩を押されたように、わたしは加賀先生に思わず話しかけた。
 加賀先生と津村節子さんの亡き夫 吉村昭を語る対談集を担当した編集者は、第2回開高健ノンフィクション賞最終選考時のわたしの担当編集だったからだ。
 学習院で学んだ吉村さん、津村さん夫妻と、加賀先生との交流。
「なかなか仲良くなれる人は少ないものですよ」
 と加賀先生はおっしゃった。
 加賀先生と辻先生ご夫妻、そして吉村先生、津村先生ご夫妻。
 先生方の交流のエピソードのお話は、わたしの学生時代の恩師との触れ合いを思い出させてくれた。

辻邦生展覧会「永遠の光アルカディア――辻邦生『夏の砦』を書いた頃」
 2017年7月18日〜8月11日まで
 学習院大学史料館にて入場無料、10時〜17時