2017竹富島種子取祭は「うつぐみ」どう勝る

 10月28日から沖縄へ行く予定であったが、台風のため28日は羽田発の沖縄行きの飛行機がすべて欠航になった。
 今年2017年の竹富島種子取祭の芸能奉納の日程は、10月30日、31日。29日のフライトは台風の進行速度によるので、飛ぶかどうかすらわからない。パソコンにらめっこと電話をかけまくって悩みに悩んだが、29日のJALキャンセル便をあてにするのではなくて、成田発のジェットスターをあらたに予約することに決めた。
 すっかり予定が狂い、費用もLCCなのに割高のチケットになってしまったが、しかたがない。どんなに悪天候であっても、エアーも船も欠航になろうとも、祭は干支の「かのえとら」と「かのとう」の日に決まっているのだ。
 成田からのLCCのターミナルビルは、急ごしらえの内装のままで、これでは東京オリンピックで急増するはずの海外からの観光客の日本へのファーストインプレッションはあまりいいものではないのではないか、安作りな文化の印象になってしまわないかなあ、などと一人で心配になる。まあ、もしこれがLCCの格安便にのれたのなら、そして台風による大幅な予定の変更によるストレスがなければ、こんなことはきっと考えなかったにちがいない。お得なんだから多少のことには目をつぶろう、そう思ったに違いないのだから、まことに人間なんて現金なものである。
 ちかごろ消費者クレーマー問題が新聞でもよくみかけるが、サービス業に対する上から目線の客は、そのときの自分の別の問題のうっぷんをはらす、つまりは八つ当たりに近いものがあることが、この自分のケースでもわかろうというものである。
 さて、那覇に入り、夜に首里八重山料理の店、『潭亭』の宮城礼子さんご夫婦と会う前に、首里城へ。
園比屋武御嶽石門に詣でるためである。
 あしたから行く竹富島の英傑、西塘が16世紀、尚真王の命で建立した琉球石灰岩の石造りの門は、琉球国王が場外に出るときにその門から神に祈願した礼拝の門で、世界遺産に登録されている。
 もう夕方近くなってはいたが、まだ観光客が多く、アジアからの団体観光客がこの御嶽の門を素通りして守礼門から歓会門に向ってのぼっていくが、わたしの目的はこの西塘の建築をあらためて見ること、これから竹富島に向かうことを西塘に報告することであったから、しばし門前にて祈った後、首里城内には入らずに来た道をもどり、待たせていたタクシーに乗った。
 それにしても、西塘は15歳(10代)の少年時代に首里に連れて行かれ、どうしてこのような建造物をデザイン・建造するほど卓越した石工つまり建築家としての能力を身に付けることができたのだろうか。西塘についてはあまり詳しいことはわかっていない。これほどの英傑でありながら、実に謎の多い人物でもある。
 西塘が存在したことは確かであり、文献にも登場するし、現にこの門以外にも弁ケ獄石門を建立しているのだから、実際その腕は確かであったろう。首里城の石門の建造の際には石を積むたびに崩れてしまうのを見て、まっすぐ石を積み上げるのではなく蛇腹折状ににすれば屏風のように門がうまく自立することを進言した、ともいわれている。 その才を国王に認められ八重山首里大屋子という八重山全体を統括する役職を得て、故郷に錦を飾る形で40歳もしくは50代(?)になった西塘は、晴れて生まり島の竹富島に帰還するのである。
 実は今回、西塘の研究をされている元琉大教授に那覇でお目にかかるはずであったが、奥様が急逝され、先送りとなってしまった。しかし、あしたからの竹富島行を前に西塘ゆかりの場を訪ねることができて、気分はいやがおうにも高揚する。
 礼子さんご夫妻と食事をした首里の『富久屋』、わけても龍潭池をのぞむあたり、前の『潭亭』や博物館のあったあたりは、首里城を遥拝できるほんとうに気持ちのいい場所で、ここに立ち寄れてほんとうによかった。
 10月30日、朝10時ごろ、ちょうど庭の芸能が始まるころに竹富島に到着。


民宿に荷物を置いて自転車を借り、はやる気持ちを抑えてまずは西塘御嶽に詣でる。


 芸能奉納の音が聞こえてくる世持御嶽に到着。参道には芸能奉納の順番を待つ演者たちが待機している。どうやらやよいちゃんのマミドーマ、腕棒には間に合ったようだ。

 今年の公民館長上勢頭篤夫人の享子さん、新田観光のひとみさん、そして伴侶上勢頭芳徳さんを亡くされた同子さんの姿をみかけ、あいさつをする。
 喜宝院の蒐集館長であった芳徳さんにはひとかたならぬお世話になった。コーラルウエイ連載『南の島のラブストーリーズ』を単行本にまとめた『ヤマト嫁』の前書きには、博物館長として登場するヤマト婿の芳徳さんである。しかし、とうとう彼自身のラブストーリーをきかずじまいだったことが悔やまれる。
 おととしの種子取祭の後、南部医療センターに入院している芳徳さんを見舞いに行ったのだが、そのとき彼はうとうとしているようで、きっとわたしのことはわからなかっただろう。思えばあれが最後の出会いになってしまった・・・。
 同子さんは、芳徳さんの看護と気苦労からか心筋梗塞になり、ステント手術をして「この世にもどってこられました」と言う。ほんとうに大変だったと思う。こころからお悔やみ申し上げます。
 それにしても、驚いたのは芸能奉納の会場である世持御嶽の隣、玻座間御嶽の道路を隔てた先にある真知御嶽に隣接する土地に、温泉開発が進められているということだ。
 これにはびっくり仰天である。今年の公民館長、上勢頭篤さんとトイレ前でばったり会ったので、「温泉掘っている場所はどこ?」と聞き、踊りのあいまに、教えてくれた真知御嶽のあたりに行ってみることにする。
 御嶽の近くを歩いてくる青年がいるので「温泉が出る場所ってどこですか?公民館長に聞いて」と言うと、御嶽の横の道を進んだところだと教えてくれる。「もう発掘終わってますから、わからないだろうけど、立ち入り禁止になっているはず」という。
 ああ、それさっき通ってきた御嶽沿いの草の中の道だ。
 もう一度歩いていくと、たしかに立ち入り禁止の鉄条網が張り巡らされている。

 が、もしこの土地に温泉が出たというのであれば、まさしく御嶽の敷地の裏側に当たり、完全に隣接していることになる・・。
 聖域に温泉施設ができるというのか??
 コンドイビーチには沖縄本島資本によるリゾート開発問題が起こっているし、温泉は島人の方が独自に掘っているということなので、まさに竹富島は内憂外患、それも海外資本や本土資本ではなくまるで身内の造反のようなリゾート問題に揺れているのであった。町並み保存によって守られている美しい集落とビーチ、そして少ない民宿による環境保護の努力もむなしく、芳徳さん亡き後ここにきて積み上げてきたせっかくの竹富島自治環境保護政策・竹富五憲章がこれでは声をあげて泣くというものだ。
 今年の公民館長のスピーチは、「うつぐみ」(協力し合う)ということが強調されていたように感じた。その言葉が胸に響く。
 そうそう、祭の翌日郵便局でみかけた小さな子連れの青年は、わたしが温泉開発の場所を聞いた人で、なんと公民館長の上勢頭篤さん・享子さんの息子だったのだ。

 小さな子どもはヤマト嫁・享子さんの孫、島の未来を担う子どもたちのひとりである。
 いまこそ、うつぐみスピリットを発揮して、島人同士を二分するようなことのないよう、またせっかくみんなで守ってきた町並みとうつくしいビーチを子々孫々に残す知恵を、ジンブンを働かせてほしいと切に祈るばかりだ。
 さて、種子取祭の二日間にわたる芸能奉納の翌日、神司の島仲由美子さんが紹介してくださったおかげで、狩俣恵一先生にお話をうかがうことができた。
 いままで祭りのたびにご尊顔を拝していたし、先生のご著書はわたしのバイブルであるし、昨年の『家の光』雑誌取材で漫画家の細川貂々さん一家と種子取祭を見たときには、てんてんさんにこの本の小型版を資料としてお送りしている。
 まさに種子取祭に関して、西塘に関して、研究者としては竹富島在住の最強の方にじっくりとなーじのお宅でお話しを伺えたのは、神々のはからいであったろう。
 そして、翌日帰る前に、民芸館に立ち寄ると、星野リゾートのスタッフが由美さんに織物の糸を取材するという場に出くわした。これ幸いと、糸や島の染料の素材をもって辻に立つ由美さんをパチリ。取材中の由美さんを撮影するという、いつも取材者のわたしたちがやっていることを、第三者的立場で立ちあわせていただくという、ありがたい機会をいただいた。


 そして、そのときである。
 西塘ゆかりの方のトート―メ―について話していると、ちょうどそこを観光牛車の仕事中のその方が通りかかり、見事なタイミングで由美さんがその方に「こちらの吉江さんが、おうちに寄らしてほしいって」と言ってくださる。
 昼のために自宅に戻っているその方の座敷にあがらせていただき、トート―メ―をみせていただいた。
 いままで20年以上も竹富島に通いながら、このような機会ははじめてのことである。 西塘が招いてくれたのかもしれない。
 いつのまにか船の時間が迫る。狩俣先生宅に忘れた帽子を先生がまちなみ館にとどけてくださり、それを港ターミナルまで阿佐伊拓さんが届けてくれるという見事な連係プレーで手にする運びになり、船に遅れまいと民宿の車に乗り込み、港へ向かおうと曲がり角を曲がる。
「おおっ」と民宿大浜荘の跡継ぎ、勝が叫ぶ。
 なんと、車の前を大きなシラサギが白い羽を広げて飛び立ったのだ。
 ああ、去年、東パイザーシ御嶽に消えていった、あのシラサギ。
 今年もまた、姿を見せてくれたのだ!
 島育ての神さま、ありがとうございました、と胸の中でつぶやく。
 船に乗って、石垣島へ。ちょうど母のいる施設から妹の電話がかかってくる。
 『種子取祭は、神さまたちが仲直りした、うつぐみということを大切にするお祭りだよ』と伝えると、台風の影響で激しく揺れる船の窓から、緑の竹富島が上下運動をしながらみるみる小さくなっていった。
 写真家の大森一也さんと会うため大浜信泉記念館へ。
 資料をみつけて読みふけっていると、『島の手仕事』の著者でおつれあいの安本千夏さんとお嬢ちゃんがやってきてくれた。大森さんには、昨年はてんてんさん一家ともどもお世話になった。
 港の見えるおしゃれなブーランジェリー・カフェに移動しゆんたくしていると、突然の大雨である。スコールどころか、台風のような激しい雨の中、大森さんの車で送っていただき町役場へ。
 ここで、竹富島の発掘調査をした方に会う約束になっているのだ。
 彼は小浜島に出張中なので、とりあえずびしょびしょの足もとのまま、役場で待っていると、やはり大雨でびしょびしょ、メガネまで水滴の付いた男性が戻ってくる。もう5時近く、出張がえりで彼もまた、くたくただったろう。それでも、『西塘に関してはあまりに謎が多い』ということがわかっただけでも、よかったかもしれない。
 翌日は嘘のような晴天。
 西塘が竹富島から移転させた蔵元跡を探し、図書館で調べ物をしようとしたが、なんと図書館は休館。
 そのとき道を尋ねた男の方が「ぼくは竹富ですよ、えっ西塘?うちは西塘御嶽の裏ですよ」といったのには、のけぞりそうになる。
 えええ、なんという偶然。つい「不思議ですね」と言うと、男性が怪訝な顔をする。「いや、わたしにとって、不思議なんで。西塘のことを知りたいと思っていると、次々に西塘にご縁のある方と出会えるので」とひとりつぶやく。
 そうそう、この高揚感と共時性。このわくわくする気持ち。ぜったいになにかが、おおいなる力がサポートしてくれている・・。
 しかし、炎天下、またまた、蔵元を探してうろうろしなくてはならなかった。
 タクシーが徐行するので窓を見ると、さきほど乗った運転手さん。
 彼は、なんと毎年種子取祭で芸能奉納をする演者、それも喜劇の狂言などで活躍する芸達者な方であった。いまは地方をやっているという。そう、地方とは舞台の裏で生演奏をするミュージシャンである。おたがいに、毎年種子取祭には世持オンに集まっている仲というわけで、一気に親しみがわいてきたものだった。
 彼は、さきほど西塘ゆかりの蔵元の場所を聞いたものの、場所が分からずうろうろしているわたしをみつけて、声をかけてくれたのである。
「蔵元はどこ??」叫ぶわたし。那覇行の飛行機の時間も迫る。
 すると、ずっとうろうろしていた、博物館に隣接する琉球石灰岩の塀が、その蔵元跡の塀であっことが判明した。さきほどどうにも怪しいとにらんで、草むらのなかを入り込んだ土地は、その蔵元の裏の敷地だったのだ。
 台風一過の青い空に、白い石灰岩の塀。
 そして、がじゅまるが塀のすきまから芽を出している。

 その生命力。
 きっと西塘の島を思うこころ、うつぐみ精神も、このがじゅまるの芽のように、次世代の島の未来の子どもたちに受け継がれていくだろう。
 わたしはそのお手伝いとなる仕事をいたします。
 どうか手伝わせてください、と祈った。

 2017年は、激動の年であった。
 世界が大揺れに揺れているいまこそ「うつぐみ」スピリットが必要なときもない。 
 わたしたちは争わず闘わず、仲良く共に生きる道をさぐろう。みつけよう。

 今年の大収穫は、父のいとこにあたるシスター鈴木秀子さんに出会えたことであった。シスターの最後のクリスマス講話会で、シスターはこんなことをお話になった。
 まずは自分自身と仲良く。周りの人、他人と仲良く。そして大いなる大宇宙を感じるようにしてください。この3つの「仲良く」、それはうつぐみスピリットと重なる。
 そう、まずは自分が自分と仲良くする。そしてまわりと仲良くする。社会と仲良くする。世界と仲良くする。自然と仲良く、そして宇宙と仲良くする。うつぐみの輪を小さな輪から大きな輪へと広げていくのである。
 まずは、自分自身と仲良くすることから、2018年ははじめたいと思う。
 みなさま、どうぞうつぐみに満ちたよいお年を!!