慰霊の日に、映画『うりずんの雨』を見てきました。

 昨日は6月23日、岩波ホールで開催中のドキュメンタリー映画うりずんの雨』をみた。

この日に、沖縄の抱える問題を描く映画をみたいという客はけっこう多く、ジャン・ユンカーマン監督と制作会社シグロ社長で本作のプロデューサー山上徹二郎さんとの対談が、上映後に行われることもあって映画館は満席であった。
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 実は、山上さんにはほぼ20年ぶりにお目にかかる。
 某機内誌に『南の島のラブストーリーズ』を連載していたとき、ユンカーマン監督の『老人と海』の通訳として活躍した女性が、撮影後に沖縄に嫁いでいたことを知って、彼女を取材させてもらった。そのおりにプロデューサーの山上さんにもお話をうかがっていたのである。
 上映後にホールでファンにとりかこまれている山上さんにあいさつすると、山上さんはわたしを覚えていてくださった。この映画公開のことを知って、父親の竹富島での絵画展のご案内をお送りしていたこともよかったかもしれない。思い上がっているかもしれないが、オキナワを想うウムイはお互い変わっていないように思え、なにか同志のような親しみをわたしは勝手に感じたことを告白しておこう。
 持参した『島唄の奇跡』を山上さんはすでにお持ちだと言って、ユンカーマン監督に渡すようにと、紹介してくださった。私が思わずあいにく英訳はないのでというと、「監督は日本語、読めますよ」と言った。
 そうなのだ。『老人と海』のときには通訳がいたのだが、いまやユンカーマン監督は、『うりずんの雨』のなかで、インタビュアーをつとめ、全編を流れるナレーションも監督自身の声で吹き込まれている。
 2時間半に及ぶドキュンメンタリー作品は、まったく長さを感じさせないものだった。米国立公文書館所蔵の記録映像を豊富に使用し、もと日本兵、もとアメリカ兵、沖縄の住民たちに取材を重ねた映画は、オキナワをくわしくは知らない人にも、現在の沖縄が抱える問題とわたしたち日本人への深くて重い問いを投げかけてくる。
 第1部『沖縄戦』、第2部『占領』、第3部『凌辱』、第4部『明日へ』の4部構成の中でもっとも観客が衝撃を受けるのは、1995年のいわゆる由美子ちゃん事件、12歳の少女が拉致暴行殺害された少女暴行事件のレイプ兵のひとりが、インタビューに応じる第3部の『凌辱』であろう。
 凌辱。このことばが、実はすべてを物語っている。
 沖縄での住民に対する性暴力。
 これは、『植民地』である沖縄でだから、アメリカの『戦利品』である沖縄でだから、フツ―の田舎者の二十歳そこそこの若いアンちゃんが、なんの罪の意識もなく、仲間に誘われるまま『ジョークと思って』平気でやってしまう凌辱であり、犯罪なのだ。
 米軍内でも、男性兵士が女性兵士をレイプするという現実をも、映画は明らかにしていく。戦場で、植民地で、軍隊という特殊な世界の中で、凌辱される女性たち。凌辱されるのは少女であり、オキナワそのものであるという苦い現実ーー。
 そして、映画はつねに複数の視点を描きだしていることにわたしは着目したい。
 米国人と日本人のそれぞれの立場、視点。
 アメリカ人の監督が描く、日本のなかのオキナワ。
 加害者と被害者。
 男と女。
 しかし、この関係があるとき「反転」する。
 加害者もまた被害者である、という視点が描かれているのだ。
 レイプした米兵は故郷の田舎町に帰って失業中の身で取材に応じた。
 彼はなんどもなぜあんなことをしでかしたのかと思うと言い、「あの少女に許される」ことを願う。
「どうせ地獄に落ちるんだ。神の許しなどより、彼女は本当に許してくれるだろうか。世間が許してくれることはないだろうが、彼女は許してくれるのか」と。
 おそらくキリスト教徒であろうから地獄に落ちるという言葉が、彼にとっては現世での裁判や判決の結果よりも重いものであろう。その神よりも、少女に許してもらいたいと彼はなんども言うのだ。どうせ自分は地獄に落ちるのだ、とつぶやいて。
 レイプ兵は一生、自分のしてしまった罪の重さを抱えて生きていくだろう。3人のレイプ兵のひとりは服役後アメリカに帰ってきてレイプ殺害事件を起こしたあと、自殺している。もうひとりの首謀者は、7年の服役後アメリカに帰っているが、取材には応じていない。
 12歳の少女をレイプしたもと兵士は、残りの人生とあの世での生を、この事件によってふいにした。罪の意識を持ち続け、許しをこいねがって生きなくてはならないという意味では、彼もまた戦争の被害者である。『植民地』でなかったら、彼はこのような軽い気持ちで犯罪を犯しただろうか。
 監督は上映後の対談で、山上さんに促されて、映画の英語版タイトルについてこう語っている。
 「100時間に及ぶ沖縄戦の資料映像をみているある日、眠れなくてうとうとしているときにthe afterburnということばが浮かんできた。火炎放射器で焼かれたあと、炎が消えた後もやけどが治るのではなくて、時間がたつほどに傷が深くなっていくということばだが、これは心理療法でもいうことばなのだと知ったのです」
 トラウマを解決するまでは、傷は治るばかりかより深くなっていく。
 トラウマを解消しなくては、傷は治らない、と。
 the afterburn という状態は、まさに沖縄にも、レイプされ殺害された少女にも(女性にも)いえることだ。
 さらにいえば、日本兵のこころにもアメリカ兵のこころにも、レイプ兵のこころにも深い傷を与え、今もその傷はなおるどころかより深くなっている・・・。
 誰かを凌辱すれば、自分もまた誰かに何かにこころを凌辱される。
 歴史historyは流れ去っても、個人のこころのhistoireは消えない。こころのhistoryには、深く刻印されるのだ。
 戦争とはなにかーー。
 それをわたしはこうかんがえる。
 植民地を凌辱し、女を凌辱し、この世に地獄を生み出し、人のこころの傷はずっと続き、より深くなっていく。
 戦争とは、人を人でなくするもの・・。
 意識を立場を視点を反転させることによって、多面的に沖縄を描いたジャン・ユンカーマン監督の『うりずんの雨』は、わたしたちに教えてくれる。
 いのちを、土地を、生きものを凌辱してはならない。自分が凌辱されるのだから、と。
 それは、辺野古新基地に反対する沖縄のウムイにも、重なってくる。
 憲法九条の問題にも重なるテーマでもある。
 深い示唆に富んだ『うりずんの雨』、the afterburn。
 戦争を知らない若い人たちにもぜひ、今こそみてもらいたい映画である。