修学旅行生は高江村に行こう!

 11月5日に二宮でおきなわんナイトというフェスティバルが開催された。


 その折に展示した山本義一の竹富島の絵画は、声楽家にして二宮町議の一石洋子さんの事務所で預かっていてくださった。先日は、その搬出と実家への搬入のために二宮に滞在した。
 12月10日ごろ、寒さがきびしくなるという報道だったのだが、二宮に来てみたら、日差しがあると暑いほどであった。
 その翌日に、一石さんのお誘いに甘えて、みなさんとともに車で遠出し、秀吉が一夜で築城した「一夜城」のみかん山にみかん狩りに連れて行っていただいた。
 車中で沖縄の修学旅行から帰ってきたという高校生と話をすることができ、なかなか興味深かった。わたしも、昨年3月南城市のハーブ工房で女子高生の民泊体験に偶然いあわせたことを思い出す。
 いつごろから高校生の修学旅行に、民泊が組み込まれるようになったのだろうか。
 南部戦跡、首里城見学という定番のコースにプラスして、渡嘉敷島の民宿に泊まって、カヤックのレクチャーも受けたという。残念ながら、実地体験は事故を危惧する先生側の考えでできなかったそうだけれど。
 南城市に民泊した高校生は、ガマに行ったあとの滞在だった。
 真っ暗なガマに入って、暗闇の中で彼女たちはなにを感じたのか。
 わたしがおじゃました南城市の民宿サイドでは、ショックを受けた子どもたちもいるので、と、まずは南城市の浜に連れて行ったり、沖縄ならではの芸能でお迎えしたりしていた。
 多感な子どもたちに沖縄の戦争体験を伝えるときに、ウチナーンチュがそっと添えてくれるのは、このやさしさである。
 わたしが渡嘉敷で出会った集団自死の生き残りの女性は、親にこん棒でなぐられた傷が頭にあった。赤ん坊が泣き声をあげると、敵に知られるというので、日本兵から赤子の口を塞ぐように命令された女性もいたという。
 男が女を、親が子を殺さざるを得ない状況にウチナーンチュを追い込んだという歴史。
 それは、当事者の口から語られることがないまま、戦後71年がたったといっても過言ではない。
 当事者は、つらいからこそ話したがらず、思い出したくないからこそ語らず、子どもたちのこころを怖がらせないよう、口をつぐんできた。
 表に出ている戦争証言はほんの一部なのだ。
 離島に行けば、南部の村に行けば、親や祖父母や親せきの戦争体験を、彼らの優しさゆえに聞かないままだったという方に出会うことができる。
 わたしもまた、父親に戦争体験をじゅうぶんに聞かずじまいであった。
 描きかけの120号の絵画『噫、牡丹江よ!』をみたときに、イラク戦の女たちを描いたものかとは聞いたけれど、なぜもっと突っ込んで父親自身の体験を聞かなかったのか、悔やまれる。
 しかし、父は話したがらなかった。
 満州での体験談をまとめた知人のカメラマンの本をみせても「こんなもんじゃなかったよ」とだけ言った。
 ほんとうに悲惨で残酷な体験は、いまのこの世では、語っても、わかってはもらえないと思ったのか。こどもにつらい思いをさせたくないということもあっただろう。
 しかし、今や、親世代の、ウチナーンチュたちのそのやさしさに、わたしたちは甘えてはいられない。
 もうそのやさしさを、その恩を、仇で返してはいけない。
 墜落事故6日後のオスプレイ飛行再開という異常事態である。
 最高裁が下した国の勝訴、沖縄県側の敗訴。辺野古で再開されるであろう新基地建設工事。
 北部訓練場返還と交換に作られた6つのヘリパッドに囲まれた高江村の人々。
 彼らの健康を奪い、普通の日常生活をおびやかすストレスがどれほどのものか、このような犠牲をウチナーンチュだけにおしつけている事実を、わたしたちはあまりに知らない。三上智恵監督の映画『標的の村』が伝えていることは、ほんのひとかけらだったのだ。
 米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した事故は、2004年のことだ。あれから10年たっても、女性誌の取材で現場にいったときの光景を思い出す。
 まだ、煙が立って、焼け焦げた樹木、黒焦げの壁もなまなましい事故後のキャンパスで、女性教員に事故のときの様子をきいた。
 彼女は教室を出て駐車場へ向かうとき、轟音とともに頭上を覆う大きな影におおわれたときの恐怖を語ってくれた。
 教室内では衝撃でコピー機の横の窓が破損し、ロールスクリーンが折れていた。
 近くの民家では、赤ん坊の寝ているすぐそばに機体の破片が落下した。
 しかし、事故現場には keep out のベルトが張りめぐらされ、日本の警察も調査できていなかった。米軍の事件・事故は日米地位協定によって、基地の外であろうと米軍による警察権が認められているためだ。
 今回のオスプレイ墜落現場も、日本側は現場検証できていない。
 これでは、植民地ではないか。
 「法治国家ではない」という翁長知事のことばに、うなずいた人は多かったと思う。
  「機体に問題はない」「住民の安全を守る判断をした兵士を誇りに思う」と、当然のように、しかも怒りをこめて語る米軍の様子はくりかえし報道された。
 そうだ、わたしたちは高江に行こう。
 修学旅行生は、名護市から日帰りで高江村に行こう!
 米軍が安全を保障しているというのなら、修学旅行に行ってもいいではないか。
 南部戦跡。そして、第32軍司令官牛島満中将が自決した場でもある、美しき首里城
 牛島は自決前に大本営に、こう打電している。
沖縄県民、斯く戦えり。格別のご高配を賜らんことを」
 そのことばを噛みしめつつ北部へ。
 北部訓練場が返還された北部の村、高江に行こう!

 名護市の二見以北十区に住み、辺野古新基地建設反対運動にとりくみ、多くの著書を出している浦島悦子さんからメールをいただいた。


ご本人の許可をとったうえで、以下の文を引用させていただく。
 
「かつて私が住んでいた(今は隣部落の)安部集落の目と鼻の先のリーフ上にオスプレイが墜落し、バラバラになっているのを見てぞっとしました。
その機体回収も終わらないうちに高江のオスプレイ訓練用ヘリパッドが完成したとして「北部訓練場返還式典」の茶番劇が行われ、辺野古埋め立て承認取り消しをめぐる裁判では最高裁 が県の上告を却下し、県敗訴の判決を下しました。
政府は年内(御用納めまであと2〜3日しかないのに)にも辺野古の工事を再開すると言っており、最悪の年末となりました。
 年明け早々にも本格工事が始まる と、辺野古はまた大変な状況になるでしょう。
政府は私たちをあきらめさせようとあの手この手を使ってきますが、それは逆に県民の結束を強めるだけです。
来年はいよいよ腹を据えて頑張るしかありません。辺野古の基地建設を許せば、現在の4倍の100機のオスプレイが未熟な新兵の訓練のためにやんばるの空を飛び回り、墜落の危険は何十倍にも増えるでしょう。」