赤嶺精子先生の生年祝いに行ってきました。

 先日、八重山舞踊の研究所・勤精会を主宰する赤嶺精子先生の85歳のマリドシヨイ(生年祝い)に出席した。



 沖縄では、生まれ年には「マリドシヨイ」と呼ばれるお祝いを盛大に催す。
 竹富島の種子取祭では、ことしの干支の人、つまり満48歳、満60歳、満72歳、満84歳、満97歳がそれぞれの歳ごとにあつまって、徹夜の行事ユークイにもおそろいのTシャツを着て参加する。芸能奉納の行われる日中には、世持御嶽の神前で、健康願いをする姿もいつもこの目で見ている。JTA機内誌『コーラルウエイ』で、竹富島の種子取祭に帰る還暦の生年祝いの人たちを取材したこともある。
 わたしがうつ病から回復して8年ぶりに竹富島に行ったのは、まさに自分のマリドシヨイの年に種子取祭に参加し、神々に健康ニンガイのお礼詣りをしたいという思いからであった。
 この生年祝いは、どの島でも地域ごとに公民館などで盛大に行うようである。
 赤嶺先生のように、島を出て東京で活躍している方は、島と所在地の両方で行うこともあり、いかに生年祝いを島人が大事に思っているかがわかる。
 12年ごとの生まれ年に、健康に生きてきたことを祝う節目の行事は、85歳、97歳ともなれば、「長寿にあやかりたい」という周囲のみんなにとっても誇らしい慶事となる。
 さすがに芸能研究所のお弟子さんたちが開催する会である。舞台袖には地謡のメンバーたちがずらり。司会者の紹介があって、来賓あいさつ、乾杯の後、金屏風の舞台で親戚一同が恭しく座開きの『かぎやで風』の舞を披露する。

 精子先生のプロフィール映像が流され、お弟子さんたちによる『松竹梅』『桃里節』『繁盛節』などの芸能がくりひろげられるなか、舞台下で本日の主役・赤嶺精子先生が、宴席の人々に「あやかり」の盃をさずけてくれるという趣向だ。


「さあ、みなさんもあやかりのお酒をいただいてください」という司会者の声にうながされて、わたしもいまかいまかとタイミングを計っているのだが、先生の前には長い行列が続いていて、なかなか人が減りそうもない。

 そろそろ宴も終盤という頃になって、わたしは隣席の白百合クラブ東京メンバーの新本全徳さんと一緒に、盃をいただくことができた。これで、85歳までは大丈夫ですね、と全徳さんに言うと、彼は「自分は来年だけど」と笑っている。確かにウチナーンチュはみんな若い。赤嶺先生は、肌のハリはわたし以上である。
 97歳の生年祝いカジマヤーが楽しみである。それまでわたしも、あやかって健康でいようと誓う。精子先生にはじめてお会いしたのは1999年。白百合クラブの取材のために全徳さんとともに3人で会った7月の蒸し暑い日のことは、いまもありありと覚えている・・・。
 それにしても、スライドを見てつくづく精子先生の仕事ぶりに驚かされた。
 八重山芸能を本土でも広めようという活動は、赤嶺氏と結婚したことでさらに広がりを持った。赤嶺氏亡き後もあちこちで多くの公演を行い、近年はムリブシ(南十字星)の舞いを復活させ、弟子の育成に努めてきた。
 睡眠を削って芸能に使う小道具まで手作りしていたこと、「踊りに使うものぐらい自分で作りなさい」と弟子に教えたことなど、お弟子さんのスピーチによって、人の数倍も頑張ってきたからこそ、いまの精子先生がいることがあらためてわかった。
 最後に、お弟子さん代表が「睡眠時間を確保してください」とお願い事項を読み上げると、先生は言った。
「いい加減にはできない性格ですから、朝の五時までかかっても仕上げましたよ。また、この姉が『あら、これだけ残して寝てしまうの?あなたらしくないわね』というものだから、姉のおかげでここまで頑張ってこれました。お姉さん、ありがとうね」と姉上を前にユーモアたっぷりに話すと会場はやんややんやの大喝采
 お弟子さんがユーモラスな踊りを発表したあと、おもわず精子先生が会場に向かって語りかけてしまったときもまた、会場は大うけだった。
「けっして平坦な人生ではない、いろいろなことがありました。でもそれを乗り越えてきたからこそ、強くなれました、私はそう思っています」
 この姉御的な包容力と、人一倍の向上心と努力。そして、独特の語り。たくさんのお弟子さんたちをひっぱっていく精子先生の大きさを確認した一日でもあった。
 隣席の全徳さんは「最後にアコーディオンを弾くから」と言って飲酒を控えていたのだが、プログラムには記載がない。あれ、白百合クラブのうたをひとりで発表するのかしらと思っていたら、全徳さんのアコーディオン伴奏がはじまり、流れ出したのは『金剛石の歌』。
 「この歌を自分のこころの歌と思ってきました」
 その精子先生の声に導かれて、卓上にあった楽譜をみながらみんなでうたう。あれ、どこかで聞いたことがある曲だなあと思いながら。
 驚いたのは、帰りの電車の中で楽譜をあらためて見直したときである。
 作詞は昭憲皇太后とある。明治29年、皇后がつくった歌詞に教官が作曲し、華族女学校の校歌となったと記載がある。のちの女子学習院の校歌であった。
 わたしは大学は学習院の仏文科で学んだが、いわゆる外部からの学生なので下からの学生とは違い、中高等科や女子短大のことはよくは知らない。しかし、精子先生がこのうたを自らのこころの指針としてきたのが、歌詞を読んで納得できるような気がした。まさしく精子先生の人生は、このような気持ちで歩んできたのであろう。
 この歌はいま学習院女子の中高等科、宝塚音楽学校の入学式でうたわれている。

         金剛石の歌
 金剛石も みがかずば 玉の光は 添わざらん
 人も学びて のちにこそ まことの徳はあらわるれ
 時計の針の 絶え間なく めぐるがごとく 時の間も
 光陰(ひかげ)惜しみて 励めなば いかなる業か ならざらん

 水は器にしたがいて そのさまざまに なりぬなり
 人は交わる 友により よきにあしきに なりぬなり
 己に勝る よき友を えらび求めて もろともに
 心の駒に むちうちて 学の道に すすむべし