母方のルーツ、清水の料亭「橋虎」の思い出

 2月19日、新幹線で静岡へ、そして静鉄で清水に。翌日開催される三保の松原学シンポジウムで、友人鶴岡真弓が話をするというので、急きょわたしもかけつけたのであった。清水と聞けば、来ないわけにはいくまい。



 清水は母の実家、料理旅館『橋虎』のある、わたしにとって懐かしい地だ。
 清水市内を流れ、折戸湾にそそぐ巴川にかかる橋、稚児橋のほとりに、未亡人となった曾祖母・イソがはじめたうどん屋『いづみ屋』が、『橋虎』のルーツである。
 稚児橋を行きかう人々にうどんを提供したら繁盛し、さらには宿を乞われて旅館をはじめた。建設中の旅館のモノクロ写真は、いまも実家に残っている。
 木造三階建の当時はめずらしい建築物だったらしい。実家にあった額入りの複写写真には、棟上げ式らしい様子が撮影されている。そろいの法被を着た男たちは母親の従兄の経営する塩坂組の大工たちだろうか、三階部分と2階部分には正装した人も子どもも映っているので、このなかにイソもまたその子である祖父もいるのかもしれない。

 洗濯物がひるがえる民家のその隣に建築中の『橋虎』は、往来に傘をさした女性や自転車に乗った子どもたちが、物見見物にやってきている。セピア色の写真は、当時の雰囲気を伝える貴重なものなのかもしれない。
 料亭『橋虎』のネーミングの由来はなんども母から聞いている。
 稚児橋の際にあったから「橋」、「虎」は寅年のイソさんからとって『橋虎』と名づけたそうな。そして、偶然にものちにイソの息子・寛吉の嫁になったわたしの祖母八重もまた、寅年であった。さらに寛吉の祖父が虎吉という名でもある(父親は松吉)。
 イソは、息子の嫁には、旅館の女将としてふさわしい相手を探したらしい。
 ちょうど茶摘みの季節に、人力車にのって、イソと寛吉の母子がかねてから噂で聞いていた(紹介があったのか)、適任の年頃の娘がいるという清水市郊外高部村の茶畑を訪れると、わたしの祖母八重は頭にはてぬぐいをかぶり、「夏も近づく八十八夜〜」のうたのごとく、茶摘み娘のファッションで茶を摘んでいたそうな。それは、しこみ、いわば演出の効果だと、いまは思えるのだが、富士山を背景に晴天の青空の下で新茶を摘む乙女の姿は、まさにこれぞ清水美人、であったろう。遠目にしか顔立ちはみえなかったとしても。
 その姿を見た曾祖母イソが、ぜひ『橋虎』の女将に、と見込んで、わたしの祖父寛吉は大店に料理修行の奉公にいき、料理旅館として『橋虎』は知られるようになった。
 そして、昭和20年にイソが没し、太平洋戦争で木造三階建ての建物は焼けてしまう。 昭和25年に寛吉は、もっと広い場所を探し、小芝神社となりに『橋虎』を再興する。「粋な黒塀、見越しの松に〜という小唄がぴったりの(口ずさむと記憶が甦る)檜の木造の塀にかこまれた木造の料亭は、進駐軍が2階建ての建物を許可しなかったとというので、平屋建築になってしまったものの、よいお客様に恵まれたようである。
 母親の見せてくれた古い写真には、田中絹代に似た祖母が、俳優や映画監督たちと一緒に映っているカットがあった。次郎長シリーズの撮影で、東映の斎藤寅二郎監督がひいきにしてくれたようで、三船敏郎、池辺良とのツーショットもあった。外国からのお客様が『shimizu,shimizu』と連呼したので、「小便所」と聞き間違えた祖父が、トイレに連れて行ったという、笑うに笑えぬ小話も母から聞いている。
 霊峰富士山はいまも昔も外国の方にとって、日本観光から外せないもののようだ。木造の純日本旅館なら、満足していただけたのではないだろうか。
 祖父が厨房で腕をふるい駿河湾の豊かな海の幸で料理をつくり、母の弟が料理を手伝い、祖母は日本舞踊を披露してもてなした。芸者さんたちもお座敷に呼んでいたと思う。みっちゃんという住み込みの女性がいて、若くてきれいないい匂いのするおねえさんだったことをおぼえている。夏の港祭りには、祖母は芸者衆たちをひきいて踊りの連をつくって踊りの行列に繰り出し、たいそう粋であでやかな雰囲気をあじわったものだ。
 港祭りには、親戚が集まって花火大会を楽しんだ。
 祖父が手入れした見事な松が池を取り囲む庭園をながめつつ、みんなで食事をしたときの写真が残っている。庭の真上に大きな花火がど〜んという大音声であがり、火の粉が舞ってくるような幻想的な記憶がいまもある。
 松は、祖父がとても大切にしていた。酒か醤油を根元に与えると言っていたような気がするのだが、それは間違いだろうか。
 庭園のなかに、太い松の枝が、ちょうど池にかかるような枝振りに仕立ててあった。
 それは幼いわたしの冒険心を刺激した。ツタの絡まる大きな庭石や岩(化石をみつけた)を乗り越えて、その松の枝によじ登ったとたん、ボキッと全身に衝撃が走った。
『ギャーッ、松ん(松が)、松ん!」と清水弁の叔母の叫び声。
 池にどぼんと落ちた(かどうか記憶にない)わたしよりも、松の枝が折れたことを叔母が心配したことが、いかに松が大切であったかを示していたかと思う。そういえば祖父は松は切っては(伐採しては)いけないといっていたように思う。
 むろん、やさしい祖父、寛吉はわたしを責めるわけでもなく、わたしは親戚中が見ている中で恥ずかしい思いをして松の偉大さを幼心に刻み付けたのであった。
 祖父はとても穏やかな性格で、字がうまく、控えめでいつも知的に静かに微笑んでいる人であった。ヘッセに似ているなあ、と大人になって思ったことがある。いつもニコニコ』と標語のように言っていた。爪を染めるような女にはなってくれるな、と言ったこともおぼえている。実家には父親が描いた祖父の肖像画があった。

 料亭や旅館はやはり、女将、である。
 祖母はそういう点では曾祖母イソのおめがねにかなっただけあって、人あしらいもうまかったのであろう。粋に着物を着こなし、それまで経験のなかったはずの女将として水を得た魚のように活躍した。まさに天職であったと思う。
 わたしが子供時代の旅の思い出として雑誌おとなの旅時間(JTBパブリッシング)に載せたエッセイの写真は、富士を背景に祖母と母、妹とわたしを、新聞社の報道カメラマンであった叔父が撮影したものだ。わたしは父親が撮影したものだと思い込んでいたのだが。

 60歳ぐらいの祖母ではあるが、その容姿はなるほど表舞台で活躍した女将だったと、納得できるものではある。
 しかし、その裏では、祖父が板長として『橋虎』の味を築き、守っていた。
 表に出るのが外から来た、いわゆる嫁で、裏方にまわって支えるのが自分の家の息子である、という男女役割分担の旅館の構造は、わたしのなかに「嫁」というものに対するさまざまな思い、嫁ぐということへの素朴な不思議(嫁ということばへの抵抗も含めて)のようなものを抱かせることになったかもしれない。
 沖縄に通うようになって、JTA機内誌『コーラルウエイ』に「南の島のラブストーリーズ」を連載し、その取材を発展させて本土から沖縄に嫁いだ女性たちのルポ『ヤマト嫁 沖縄に恋した女たち』(毎日新聞社)が生まれた。
 週刊朝日のグラビア記事『ノスタルジック日本』で日本の旅館を3人のライターと交代で取材させてもらったときも、旅館の女将にインタビューするたびに、清水の旅館『橋虎』を、祖母八重を、祖父寛吉を思い出したものだ。
 さて、今回の目的のひとつに、代々の先祖が眠り、曾祖母、祖父母、そして叔父とその娘、若くして亡くなったいとこの墓のある菩提寺を訪ねることがあった。

 JR清水駅からタクシーに乗り、妙泉寺という名を告げると、市街地を回って、現在の元旅館『橋虎』のある桜橋へいく手前、江尻町にその寺はあった。

 お寺に声をかけて住職の奥さまに墓所をおしえてもらい、たぶん初めて墓参りをする。持参した花を手向け、線香に火をつけて、手を合わせた。
 わたしは7年間のうつから回復し、こうして寺にまいることができた。
 しみじみと先祖というものの存在が光となって導いてくれたからではないかと思えてくる・・。
 タクシーを待たせてあったのだが、和尚さまが帰ってこられて、お弟子のお坊さんが『橋虎』まで送ってくれると言ってくださり、お話をうかがうことができた。
 法事の読経のあとであろうか、私服に着替えて車を運転するお坊さんが『橋虎』は近所だったのでよく知っていると話してくださった。
 ちょうど巴川にかかる稚児橋を超えるとき、「ああ、ここがルーツなのだ」と思った。小芝神社(かつては江尻城があった)のとなりに移転した橋虎は、旅館ではなく料亭だったとお坊さんはいう。叔父の代になって、『橋虎』は桜橋に移転し、旅館として営業していたが、現在は廃業している。
 その晩は『橋虎』に泊まり、厨房だったダイニングで叔母と話し込んだ。
 沖縄の新聞のコラム連載『唐獅子』に、この厨房の匂いについて、旅館の記憶について書いたことも思い出した。白木の一枚板の大きなまな板には、長い間に住み着いた酵母や乳酸菌がしみついていたのか、発酵独特のいい匂いが厨房に漂っていたものだ。
 わたしは知らない街でもおいしい店をみつけるのが割と得意なのだが、そんなときはこの『橋虎』の厨房の匂いをおもいだす。あの乳酸発酵の漬物のような匂いがする店なら、まず間違いがないからだ。
 いまはその大きくて厚い白木のまな板は、ステンレス製のキッチンユニットに変わっていたけれど、駅舎にあるような大きな古い時計は動かないままじっと静かに台所にたたずんでいた。祖父がそこにいるかのように。祖母が玄関に客を出迎えに行き、いましもにぎやかに笑いながら案内して入ってくるのを待っているかのように。
 『橋虎』の思い出は、宿泊したおかげで、より鮮明になった。祖父と長湯をしてのぼせた浴室や祖父の手書きの札の残る洗面所など、あちこちに記憶をよびさますコーナーがあった。清水は、わたしにとって大切なルーツである。
 あしたは、いよいよ三保の松原学シンポジウムがマリナートで開催される。