『沖縄 愛楽園』での山本義一の絵画展が決まりました!その1

 7月5日は、山本義一の月命日であった。


 その日、沖縄県名護市にある国立ハンセン病療養所『愛楽園』自治会の総会があり、自治会長の金城雅春さんからの議題の提案が出され、正式に山本義一の絵画展の開催が決まった。
 金城さんに山本義一のゆがふ館展示の資料を郵送してあったものの、結果はまだ確認できていなかった。6日になって、この会議に出席したという作家の浦島悦子さんからのメールを読んで、あわてて金城さんに確認したところ、いつから開催できる?という。
 竹富島ゆがふ館のスタッフの阿佐伊さんが、無事に展示を終えて絵を搬送すべく、送り先の住所確認の電話をしてきてくれたその数日後のことであった。
 なんと、急きょ、竹富島から名護市への搬送になるわけである。
 しかし、台風9号が折しも接近ちゅう。さらには次の台風11号も来ている。台風をやりすごしてからにしましょう、と阿佐伊さんはおっしゃってくれた。
 それにしても、もし実家に搬送していたあとだったら、愛楽園での開催は無理だったろうし、決まったのが父親の月命日であったことには、正直言って驚いた。
 愛楽園は、『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』(講談社)の取材で何度も通った、懐かしい場所だ。
 7年間のうつ病ののち、はじめての旅は沖縄愛楽園であったことを思うと、ほんとうに不思議な気持ちになる。
 このときも台風の影響で強風の中、ボランティアガイドをしている退所者の方と愛楽園に向かい、その車の中でわたしはうつ病のきっかけとなったのではないかと思われることを、彼に語った。
 そして彼の手で「マブイ込め」の儀式をおこなってもらい(半ば強制的にやってもらった)、ほんとうに不思議なことに自分をとりもどしたような気持ちになれた。
 彼もまた、この7年のあいだに変わっていたことを知って、まさに意識の「反転」とでもいうような体験をしたのだった・・・。
 彼はエイズになった高校生の講演会に参加したとき、「自分の体験をカミングアウトすることで誰かが勇気をもらえるのだ」と知って深い衝撃を受けたという。
 それまで彼はハンセン病を隠して生きてきた。わたしのような取材者によって、自らの過去が世間に知られてしまうことを警戒していた。当時は、多くの退所者の方がマスコミに対してたぶん疑いの目をもっておられたのではないだろうか。
 病が周囲に知られたときに、家族がまっさきに影響を受けた。
 そのことを、わたしはこの車中ではじめて知った。そんな過酷な体験をしていたとは、まったく思いもしなかった・・・。
 その彼が、高校生のスピーチを聞いて心が震え、涙が止まらなかったという。
「自分はその足で愛楽園のボランティアガイドの申し込みに行ったさ」
 隣席で運転する彼の頬には涙が光っている。
 わたしこそ、彼の告白を聞いて、涙が止まらない。
 自分勝手な思い込みは氷解し、涙で清められ、こんどはこころにあたたかいものが波のように満ちてくる・・・。
 持参したCD新良幸人の『浄夜』を聞きながら、愛楽園への道のりをただただ泣いて泣いて、そしてうれしくて幸せな気持ちになって、愛楽園に到着したのであった。
 そこでは、懐かしい入所者との出会いが待っていた。
 わたしをハグしてくれたハルさんのあたたかさ。
 病床についていた松岡牧師は、唄って聞かせようかといって、『鳩間節』をうたってくれた。
 浦島悦子さんと再会し、ふたりで展望台から夕暮れの海を見ながら話した。

「わたし、また書けるかしら?」
 そうつぶやくと、即座に浦島さんは返してくれた。
「書けるわよ」
 海には天から雲のあいだを通って光が降りている。

「あれは、天使の階段っていうのよ」と教えてくれた。
 あのときの、天啓にも似た風景も忘れられない・・。
 わたしにとって、うつ病からの再出発の記念すべき通過儀礼でもあった愛楽園で、山本義一の展示が決まったことは、ほんとうにありがたく、不思議な気持ちである。
 愛楽園は、地域の方々とも一緒に『愛楽園未来構想』のプロジェクトをたちあげて様々な活動を始動させている。6月1日には「交流会館」がグランド・オープンした。
 現在、佐喜眞美術館で展示中の「増田常徳展−−70年の旋律 不条理の深淵を凝視し続ける画家が戦後70年の沖縄を描く」が、このあとこの交流会館で7月25日から8月16日まで行われる。その次に山本義一の展示となる予定だ。
 長崎県出身の増田画伯の描く福島の「黒」は、沖縄の今にも重なる、深い闇をわたしたちに訴えかけてくる。
 戦後70年のこの夏、山本義一の120号作品「青」の『噫、牡丹江よ!』を沖縄で展示させていただける機会に恵まれましたことは、まことに意義のあることです。深く篤く、こころより感謝いたします。

 みなさま、ありがとうございます!!!