琉球新報本社ギャラリー展示を終えて

 愛楽園展示のあと、山本義一遺作展は、那覇市天久にある琉球新報天久本社1階のギャラリーでも延長展示をして、多くのみなさまにご覧いただくことになった。


 9月22日、愛楽園の自治会長金城雅春さんから連絡が入り、「愛楽園から山本義一の絵をバスで琉球新報社まで運んできたけれど、守衛の方は聞いていないと言っている」とのこと。ええっ?自治会長が御自ら絵の搬送に立ちあい、はるばる名護市済井出から天久まで来てくれたのかと仰天したが、わたしはそのとき羽田空港で出発時刻が大幅に遅れた飛行機への搭乗を待っているところであった。
 幸いすぐに与世田部長が来てくれて、無事に搬入は終わったそうだが、「まだ羽田かあ・・」という金城さんのことばがしばらく耳に残ったものだった。ほんとうに残念、わたしは金城さんにお会いして、御礼をいいたかった。
 もう一日早く那覇入りしておくべきだった・・、と気が付くのはそのあとのことである。
 絵のキャプションのために愛楽園でスタッフのパソコンを借りて作成したパネルが、荷のなかに入っていない!あわてて確認したが、「次の展示のため」入れなかったのだとか。そこで琉球新報社の与世田部長にネームを打ち込んでいただき、(重いパソコンを持ってきたのにwifiが飛んでいない!)その場でパネルを切って貼り付けていくという作業に、だいぶ時間をとられてしまった。
 まったく展示というものは常に予測できないことが起こる・・。
 このことばは、のちにいい意味でなんどもわたしのなかで反芻されることになった。


 22日の夜8時前にどうにか大きい絵を残して展示準備が終わるころ、愛楽園展示の記事をかいてくださった文化部の高江洲洋子さんが取材に来てくださった。
 前回の取材のときは、わたし自身のうつ体験のことも話してしまうほど、女性同士ということもあって話がはずんだものだ。今回の展示ははじめて120号の『噫!牡丹江よ!』を見ていただくわけである。
 義一が生涯にたった1枚だけ描いた、戦争戦争画は、引揚船に乗って帰るために徹夜の行列を待つ人々の群れである。赤ん坊を抱えた母親や幼子を連れた女たちは、生死を分かつ行列からもとりのこされて、子どもをあやし、乳を与え、うずくまっているしかなかった・・。戦争によって被害をこうむるのは、弱い者たちではないか。女や幼いいのちがどれだけ大変な思いをして、戦争が終わったのちも長くこころとからだに大きな傷を負うことになるのではないだろうか・・。
 そんな話をしているうちに、ふいに「この行列はおりしも安保関連法案強硬採決に反対する抗議のデモに赤ん坊や幼い子どもを連れてきているお母さんたちの姿に重なる」と高江洲さんが言った。国会議事堂をとりかこむように集まる国民の姿をわたしも実家のテレビで胸を熱くして見ていたのだが、ここ那覇でも子どもを連れたお母さんたちが集まってきている姿を、先日高江洲さんは目撃し、取材したのだという。
「やむにやまれず」「家にいてもたってもいられなくて」「子どもを預けることができず」デモに参加しているお母さんたちから、自然発生的に「安保関連法案に反対するママの会@沖縄」なるものが生まれている!
 おもわず鳥肌が立った。
 そのママたちの会のチラシには「だれの子どももころさせない」とあった。

 もう、二度と、だれも戦地に行かせない。
 もう二度と、だれの子どもも死なせない。
 もう二度と、だれの子どももころさせない。(引用)

『噫、牡丹江よ!』は、まさしくたったいま、安保関連法案が可決された日本の状況にも重なってくる。戦争が起こればどのようなことになるのか。赤ん坊をかかえ小さな子を連れた母親たちの姿を通して描こうとした戦争の実相――。
 95歳の戦争体験者からのメッセージである。
 ほんとうに展示という現場では、予測できないことが起こるものである。