母子像を超えて――すべてを包含するもの

 聖母子像は世界中にあり、宗教画として、またアートとして多くのコレクターがいるようだ。ラファエロの『大公の聖母』もまた長く大公が手放さなかったゆえにその名がついたのだという。

 山本義一の『噫、牡丹江よ!』に描かれた9組もの母子の姿には、ほんとうに驚いた。
 たぶん、これほど多くの母子像が描かれた絵画は、ほかにはないのではないだろうか。
 そんな発見があって、せっかく8月22日から愛楽園交流会館にて山本義一展が始まったばかり、できれば来館者とももっと触れ合いたかったのであるが、おりしも台風が近づいてきて、雨が降ったりやんだり、次第に風も強くなってきた。きゅうきょ那覇に戻り、翌日の飛行機の予約をとって、どうにか23日中に自宅に帰ってきたのだった。
 23日の朝、那覇のホテルで見た沖縄タイムスの紙面の一面には、なんと愛楽園自治会長・金城雅春さんの大きな顔写真とインタビュー記事が掲載されていた。2面にまで続くロングインタビューであった。
 わたしは十年ほど前に『婦人公論』誌面で金城さんをふくむ愛楽園の方々に取材をし、記事をかいたことがある。このころは、のちに『島唄の奇跡』執筆につながるさまざまな方々との出会いがあって、東京と沖縄のハンセン病療養所に通いだした頃であった。
 金城さんはわたしと同い年ということに、軽い衝撃を覚えたものだった。
 仕事もして家庭も持ち、まさにこれからというときにハンセン病を発症し、20代から気が付けば35年間も療養所で生活してきたという事実。それは、なまみの金城さんを知ることによって、ハンセン病元患者というリアルな存在を、その手触りとでもいうものを通して、わたしに近づけてくれたように思う。その取材の時から金城さんは、「ハンセン病回復者は、堂々と社会に出ていかなくては、伝わらないんです」と話していたと記憶している。
 本に書かれていたり、映画で描かれていたり、いわば二次情報としてのハンセン病元患者ではなく、おなじ空気を吸って今話し合うことができるという、とても人間的なふれあいの時間。
 それは、たとえば2015年に『島唄の奇跡』を出版した後に熊本の療養所菊池恵楓園で行われた第1回ハンセン病市民学会にやってきた愛楽園の方々との時間の共有。
 そして、うつ回復後のはじめての旅、愛楽園へ行ったときにも迎えてくれた愛楽園自治会の人々、また病床にあった松岡牧師、ハルさん、節子さんなどとの再会。
 そのあと九段で行われた全国規模の大会に行くと、そこで愛楽園から来ている自治会のメンバーたちとも出会った。帰りの広大な公園内をメンバーたちから遅れがちになる金城さんとふたり、ゆっくりゆっくり歩いたときの、なにか共有できるような不思議な感覚。
「吉江さんは前よりよくなった」と口々にみんなから声をかけられたものだったが、ゆっくり歩く金城さんと肩を並べている自分は、うつになったおかげでこのように相手に合わせる気持ちが生まれているのだとわかった。
 そして今回は、父の展示をさせてもらえることになって、また愛楽園のみなさまとの再会があったわけである。この展示は、さきだつ増田常徳画伯の絵があまりにすばらしく、アマチュアの義一の絵画との落差をひしひしと感じて、正直言って申し訳ないような気持ちを抱えて展示準備にいったのだった。
 しかし、自治会のみなさんはやさしかった。
 金城さんは「ゆっくりやってください」と一言。
 その、思いやりは、ありがたいものであった。義一の大きな絵を額装していたときにめまいを初めて体験していただけに、こころにしみたものだ。
 そこで、わたしなりにあらためて父としてではなく、山本義一という個人の絵に向き合うことができたのである。わたしは、もしかしたらこの展示準備の時間に、初めて『噫、牡丹江よ!』に向き合えたのかもしれない。
 入館者の方との会話のキャッチボール、スタッフとのやりとりのなかで、かくも多くの母子像を描いている戦争体験画というものが描き手にとってどのような意味を持つのか、わたしたちになにを伝えようとしていたのかを、考えるのではなく感じるようになっていった。
 だから、段階的に「気づき」があったのだろう。
 そうだった、金城雅春さんの話に戻ろう。
 新聞記事を読んで驚いたのは、ほかでもない、金城さんの母親が嵐山事件の時に住民として反対運動に加わっていたということだ。嵐山事件とは、済井出の地にハンセン病療養所を建てようと奔走する青木恵哉牧師の活動を知った住民たちが、大掛かりな反対運動を展開したというものだ。
「まさか息子がその愛楽園に入るなんてね」と金城さんの言葉が新聞記事には書かれてあった。
 皮肉にも、母親が反対した療養所に子が入所するとは、なんとも因縁めいた話である。そのことは、新聞記事ではじめて知ったのだった。
 そして、金城さんの記事の中でわたしが感銘を受けたのは、ハンセン病回復者は堂々と出ていかなくてはいけないというメッセージだけではない。戦争とハンセン病の歴史とは重なる、ということばであった。
 浜松町のモノレールのなかから金城さんに電話をかけた。
「お母様のこと、はじめて知りました」
 そんなことがあったなんて。
 そう言ってわたしは思わず電話してしまったことをわびた。
 そして、沖縄と戦争とハンセン病の歴史は重なるんですね、と確認するように言うと、彼は言った。
「重なります」
 この言葉にわたしのなかのもやもやしたものがすっと消えた。
 うれしかった。そうなのだ、山本義一の『噫、牡丹江よ!』は戦争を体験した人間が感じたものが集約されている。
 戦争によって、沖縄のハンセン病罹患率が高くなったことを思えば、ハンセン病は戦争の二次被害と言ってもいいだろう。絵に描かれた人々の群れは、満洲で引揚船を待つ人々であると同時に、ハンセン病回復者の方々が体験した歴史とも実は根底では重なってくる。富国強兵政策のために強制的に隔離された人々は、戦争によって「人生被害」をこうむったという点で、戦争の被害者にほかならない。
 そして、『噫、牡丹江よ!』に描かれた多くの母子たちは、戦争にまきこまれた母と子と庶民の群れを描きながら、すべての生きるものも亡くなっている魂をも、包含している。
 よかった、愛楽園で『噫、牡丹江よ!』を展示できたのは、まさしくわたしにこの気づきを与えてくれるためだったのかもしれない。
 いのちを守り育てる役を女だけにおしつけてはいけない。
 地球という生命体を守るのは、わたしたちすべての使命である。
 そして、母子像たちを大きく包み込むような光の輪が、いまのわたしには見える。
 その母を子を、このかいなに抱きしめて、大丈夫、安心して、そういって安堵の涙をともに流そう――。