『祈りの島々 八重山』大森一也作品展が開催されます。

 大森一也さんの作品展が東京で開かれるとお知らせがあった。

 写真集『来夏世  祈りの島々 八重山』をあらためて手にして、1枚1枚の写真をみていく。

 そこには、詩がある。うたがある。
 耳をすませば、神唄が、島びとの祈りの声が聞こえてくる。
 
 知っている顔がある竹富島の種子取祭にせよ、八重山のほかの島々の祭祀であろうと、司たちの儀式の姿にかぎらず、どの写真をみても、脳裏にニンガイの祝詞が抑揚をともない、神うたとなって響いてくるのだ。そう、花の写真でさえ。

 これは、なかなかないことではないだろうか。

 はじめて写真集を見たのは、2013年の11月21日。竹富島種子取祭の芸能奉納の二日目、前夜の徹夜の行事ユークイのあと、いっとき休憩しようということになって、同行の写真家飯田裕子さんと民宿で午睡をしていたときのことだった。
 舞台ではまだ芸能がくりひろげられているけれど、7年間のうつ病のあと、はじめての竹富島、それも種子取祭である。がんばりすぎないように、ということもあった。
 それまで毎年のように通っていた種子取祭だが、この年は特別だった。
 わたしの生まれ年であったのだ。
 竹富島ではその年のマリドシ(干支)の島びとが、世持御嶽の神前で神司たちにマリドシヨイ(生年祝い)の健康ニンガイをしてもらう。病が癒えたお礼詣りに、わたしも今年こそ行かなくては・・。
 そんな思いで久方ぶりに竹富島に来てみれば、島びとたちはわたしが急に島に来なくなってしまった理由を知らなかった。それでも、いやそれだからこそ、「むーやまやーやまの神様のお導きだ」といって神司たちはあたたかく迎えてくれた。新田初さん、島仲由美さん、与那国光子さん。榎本貞さんと内盛正子さんは引退しており、新しく誕生したふたりの司もうなずきながら声をかけてくれた。
 神前で御礼を述べて、ニンガイの祈りをささげてもらい、お神酒をいただく。
 ほっと安堵の思いが胸にわいてきて、神司たちの「よかったねえ」ということばと笑顔に救われたものだ。
 こちらをまっすぐにみつめる司の由美さんのうるんだまなざしは、忘れられない。
 そんな思いをわかってくれた飯田裕子さんが、写真を撮ってくれた。
 無事にニンガイが済み、緊張がゆるんだのだろう。民宿へもどってひとねむりしていると、飯田さんが「ゆがふ館」でみつけた写真集を手にもどってきた。
 そして、まだうたたねから覚めやらぬわたしに、「いいですよ、これ、見て」と勧めるのだ。
 正直言って、わたしは眠気半分、面倒くさかった。
 飯田さんは写真集を見終えて、こんどは横になってしまった。
 寝ながら、ふ〜ん、といいつつページを繰っていたわたしは、いつのまにか起き上がり、正座して写真集を凝視しだす。重たい写真集だから、寝転んだ体勢ではページが開けない、からではなかった。
 これは、簡単には撮れる写真ではない。
 そう、わかったからだった。
 それまで長年、八重山に通ってきていたわたしが、そう思うのだから、間違いない。
 7,8年ものブランクがありながら、これには確信めいた思いがあった。
 ほんとうに、そこには島びとたちの祈りのことばがあった。祈りの姿勢があった。
 こちら側にも、その姿勢がなくては、それはうつしだせない。祈りは、撮る側と撮られる側とが響きあって、はじめてうつしだせるものではないだろうか。
 翌2014年、ひとりで種子取祭に来てみると、おりしも「ゆがふ館」で大森一也さんの写真展を開催中であった。
 写真集の出版元が、わたしも以前書かせてもらったことがある南山舎だとわかり、写真家に連絡がとれないだろうかと電話で尋ねると、大森さんはなんと南山舎に勤務していた。竹富島滞在のあと、大濱信泉記念館を訪ね、記念館1階の風の吹き通る椅子に座って話をした。大森さんは『ヤマト嫁 沖縄に嫁いだ女たち』を読んでくれており、初対面であったが、うつ病のことなど問われるままに話した記憶がある。
 大森さんは、テレビ報道で悲惨なニュースが流れると、「わたしには関係ありません!!」と大声をあげる知人のお父さんのことを話してくれた。その、耳をふさぐようにして大声をあげる「やさしすぎる」お父さんのジェスチャーをする、大森さんの表情。わたしはそのあと、何度も思い出し笑いをしては、ほっこりした気持ちになったものだ。
 あの写真はなかなか撮れるものではない。そう思っていた大森さんの写真集のなかに、石垣島平久保で撮影した、神司が引退するときの表情の連続写真があった。
 そのときの撮影について聞いてみると、ほかにも報道カメラマンたちもたくさんいたのだと言う。
 しかし、こんなふうに、神さまに司の役をお返しし、娘の神司就任を見守る高齢の司の想いを連続写真で表現することは、なかなかできるものではない。もちろん大森さんの構成力、編集力もあるけれど、撮る側が神司の想いと響きあっていなくては、なかなかとらえられないのではないかと思う。
 「祈り」ということについて尋ねると、一歩まえに向かって踏み出す姿勢のようなもの、ということばが返ってきたこともおぼえている。それは、そのときのわたしにとっては、まさに一条の光のようであった。
 
 そうそう、2014年に亡くなった父・山本義一の遺作展を、竹富島「ゆがふ館」で昨年開催させてもらったとき、その紹介記事を南山舎の月刊誌「やいま」に書いてくれたのは大森さんであった。


 その会場写真は大森さんが撮影してくれたのだが、百号の竹富島の風景画の前に白い服を着た母娘がたたずんでいるもの。まるで絵の中の白い砂の道に、母子がそのまま歩いていくような雰囲気の漂う写真だった。
 その母子が、大森さんのお連れ合いと娘さんだと知ったのは、去年の種子取祭のあと、石垣島で大森さん一家と会ったときであった。

 お連れ合いの安本千夏さんは、その年の秋に南山舎から『島の手仕事 八重山染織紀行』という著書を上梓し、八重山の織物と島人の暮らしを見事に描いた本書は、第3回南山舎やいま文化大賞、第36回沖縄タイムス出版文化賞正賞を受賞している。

 大森一也さんの東京での作品展『祈りの島々 八重山』は、JCII フォトサロンにて2016年4月26日(火)から5月29日(日)10時〜17時(月休)開催される。





詳しくは、以下をどうぞ。
http://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/