善悪の彼岸―歌舞伎の毛抜き、三輪明宏ライブなど

 新春のご褒美にと、ラッキーにも当選した浅草新春歌舞伎を見にでかけた。

 浅草公会堂は久しぶりだ。公会堂へ向かう途中のお笑いシアターの呼び込みの声にいやがおうにも気分は盛り上がる。正月らしい和装小物や着物の店や刷毛専門店などをはしごしつつ歩いていくと、公会堂前の古本屋の店先にある本にくぎ付けになる。その日は和服を着て手には荷物を持っていたのだが、つい店内に入り荷物を置いて棚いっぱいの本の背を眺めだしてしまう。
 本土で開催された沖縄文化展のカタログや太平洋戦争体験記、いまでは入手しにくいような満洲を舞台にした小説などがあって、手元不如意なのに購入してしまった。
 ひとつには、高齢と見うけられる女性が寒風の入る店でじっと店番をしている姿が、先日報道された1月で閉店を決めた神田の老舗古書店の話に、重なって見えたこともある。いま買っておかないと、二度とこの本と出合えないかも・・。絞り込むのにだいぶ時間をかけてしまったが、ほんとうは全部ほしいくらいであった。
 さて、歌舞伎の話にもどろう。
 タイトルも奇抜な『毛抜き』がことのほかおもしろかった。歌舞伎十八番のひとつだが、わたしははじめて見る演目で、その筋書きの巧みさに舌を巻いた。
 小野小町の祖先の小野家の家騒動の話だが、小野家伝来の家宝の短冊が盗まれたという伏線、姫の毛が逆立つという奇病のため縁談が進まないという状況下、姫の婚約相手の家の家臣、粂寺弾正が姫の様子を見に訪ねてくるという展開。
 この弾正という人物が豪放磊落な性格かと思えば、美男のお小姓や腰元にちょっかいを出すというセクハラ男でもある。
 小野家の殿の御目通りを待っている間に、弾正がひげを毛抜きで抜くと、なんと金物の毛抜きが空中に立つ(なんともシュール!巨大な毛抜き登場)。一方、真鍮製のキセルは立たない・・。面妖な。この家は悪霊屋敷ではあるまいか。それにしても・・、と弾正は思案する。そういえば、大きな金属製のかんざしを挿した姫の頭を布で覆うと、毛が立たなくなった・・・。そこで彼は姫の奇病の原因を推理し始める。悪霊がとりついて毛が逆立っているのではなく、ほんとうは・・・?
 そこへ登場する人物。腰元に出した妹が死んだのは、小野家のせい、妹を返せと金をせびりにやってきた偽の農民だ。
 そのうそを見破り、農民が懐に隠し持っていた小野家の家宝の短冊をとりもどし、その場で成敗した弾正。さらに、姫の奇病の正体を暴いて見せましょうと、天井裏にひそむ忍びを槍で突く。と、忍者の手には巨大な磁石!。
 姫の髪は無時に元に戻り、弾正は殿から褒美に賜った刀を手にするや、そのまま小野家家臣の首を討つ。この家臣こそ家宝を盗み、磁石を使って姫を奇病に仕立て、婚儀をじゃましてお家乗っ取りをたくらんでいたというのだ。
 見事、悪を成敗して引き揚げる弾正。一筋縄ではいかぬ、単純ではない人物設定、どんでん返しの末の勧善懲悪の物語だ。
 セクハラ男が、一見忠実にみえる、いわば偽善者・家臣の本性を見抜き、迷信や悪霊の存在などではなく科学的な洞察力(江戸時代、羅針盤があったのだから磁石はあったはずだが、庶民には遠い存在ではないだろうか)で推理を展開し、あっという間に躊躇なく悪を成敗する。
 この、一見いい人が実は悪者であったり、ドロドロとした悪霊の仕業とみえたことが実は単なる磁石のしかけだったり、セクハラ男が悪を裁く人物であったりすることが、なんとも示唆に富んでいる。
 科学的な視野と洞察力をもった人物を単純ないい人に描かず、悪は一見、善人顔をしながらお家転覆を図るという、反転のからくり。意外などんでん返しが何重にも入れ子構造になった、おもわずふ〜むとうなる、ストーリー展開なのである。
 悪をこれでもかと描く歌舞伎の演目は実に多い。悪の美学というか、悪を美化しかねない凄惨なストーリーも不思議に多い。勧善懲悪のストーリーが大多数の一方で、悪も徹底的に描く。そのストーリーの向こうに見える善悪の彼岸とでもいうべき教訓を、江戸時代の庶民は好んだのであろうか。
 悪と見えて悪でなく、善と見えて善ではない、が、悪は善に、善は悪にいともたやすく反転する。立場によってぐるりと変わる。
 ほんとうの悪は自分を悪と思わず、悪にとっては、相手こそ悪なのだ・・。
 これは、いま私たちの世界が抱えている問題をあらわしてもいる。
(まだ読んでいないが、姜尚中先生の新刊も「悪」をテーマにしているようでぜひ手にしたいと思う)
 ある宗教を信じる人にとっては、ほかの宗教こそ悪であり、「悪」を排除しようとする。 また、戦争に向かう富国強兵政策をおしすすめる日本にあっては、兵力ダウンにつながりかねないハンセン病者の存在は悪であり、感染する病ではないと知りつつ隔離・断種政策を90年にわたって続行したという歴史がある。
 この時、政府は、国民全員に『健康であること』を求めた。
『健康』『ヘルシー』は一見いいことであるけれど、『よい国民』とは健康であらねばならないという考えは、実は病者を『劣生』とみなす優生主義と紙一重である。
 いきすぎれば、病者を排除して、生産者でない高齢者をも排除隔離する社会に向かいかねない。誰もがいつか病者に、高齢者になるというのに。
 ほんとうの悪を見抜く力。
 いまわたしたちが必要としているのは、この洞察力だ。
 違う価値観をもつ相手とわたりあい、できれば殺戮でなく事態を解決する知恵。
 悪を悪でなくする神対応
 弾正のように多少色気がある豪放磊落な人物が、色眼鏡をかけずに本質をみることができるという設定には、ゆたかな人間観察力と笑いのセンス、痛快さがミックスされている。
 そのちょっとした香り付けができるかどうかは、どれだけ豊かに文化を経験しているかもかかわってくるかもしれない。違う人種や違う文化を知り、いろいろな人と交流する。表現力、コミュニケーション力も必要だ。
 歌舞伎や演劇、音楽、絵画などの表現、すなわち「文化」に触れると、狭い自分のこころとあたまが刺激を受けて広がっていくことは間違いない。単純な善悪二元論を超えた『善悪の彼岸』に到達できるやもしれない。
 おととい、やはり当たったチケットで今年も見ることができた三輪明宏ロマンティック音楽会で、その思いをより強くした。


 この世の修業をともどもに続けてまいりましょう、そういって三輪さんがアンコールでうたったのは喜納昌吉の『花』。この歌は輪廻転生をうたったものだと彼は言った。
「こころのなかに愛の花を咲かせましょう」
 あなたの心のなかに花を、世界の人々の心のなかに花を。