初春の吾妻山は菜の花が満開です!!

 1月6日に、所用で二宮町郵便局に行き、その帰りに久しぶりに吾妻山に登った。
 登ったと言っても、途中までシニアカーで行って雑木林の山道を20分ほど登るだけなのだが、これが体調や筋力などを自分で把握する、まさに筋トレになるのである。軽々と坂道を登れる日もあれば、途中で足を止めて小休止する日もある。久しぶりに登るときは早くも息が上がって腿が上がりにくいような気がする。
 正月休み明けのこの日は、とりわけ体力不足を痛感。
 昼前とあって空腹のためか足があがりにくいし、なんども休んでしまった。下りてくる方々にはこちらから「こんにちわ」と声をかける。
 これも体調のバロメーターになる。こちらがしんどいと相手のことを観察できないし、余裕がないため、声かけしても返事がない場合におちこみやすい。
 この日は曇りがちで富士山が見えないことがわかっていたのだが、登ってみると意外に人が多かった。
 頂上に至る坂には、もう菜の花が満開である。



 コンクリートで整地された丘を登りきると、一気に視界が開ける。
 右には展望台があって、ここから右手に富士山、伊東、熱海の街、背後は房総半島と、ぐるりと360度海が見えるのだ。備え付けの望遠鏡で見れば、二宮から熱海に至る海岸線に白い波が見える。はや光は春の陽光だ。
 そして、展望台の下から左手の芝生の丘には、二宮町ご自慢の、真っ黄色の菜の花が植えられている。天気が良ければ、富士山と菜の花のツーショットが撮影できるので、NHKのニュースでさっそく今日あたり、二宮町吾妻山の菜の花が満開、と報じられるのではないだろうか。それほどに、ここの菜の花は春の、初春の象徴となっている。
 満開の菜の花は、もうそろそろ盛りを超えつつあるようで、ほのかに甘く上品な香りが漂っている。多くの観光客はわざわざ電車に乗ってこの菜の花と富士を見ようとやってきたのだろう。都心からも日帰りで来ることができ、登山と言っても初心者向けの高度なので、高齢者や赤ちゃん連れのファミリーもいる。
 海と菜の花に向かって並ぶベンチがあいたので、わたしもファミリーの隣に腰掛け、持参したお弁当を広げる。日がかげると、背後の海からの風がやや冷たく感じたが、そのうちにぱ〜っと日が射してきた。こうなると、菜の花畑は黄金の輝きを放ち、空の明るい青色、海の青に映えて、一気にあかりは華やぎを増す。
 光によって、黄色が金色へと変化する瞬間は一瞬だった。
 この光景は、昨年の11月末に、東舞鶴にある舞鶴引揚記念館へ行った帰りに立ち寄った京都で見た金閣寺を思い出させた。

 
 修学旅行以来、雑誌の取材で京都に行った時も銀閣寺には足を運んだが、金閣寺にはいかないまま年月がたっていた。ことしはなぜか、短い時間のなかで金閣寺に行ってみようと思えたのだった。やはり曇りがちの肌寒いなか、外国からのたくさんの観光客にまじって(日本人観光客のほうが少ない、スマホで自撮りしているのも外国からの方ばかりで驚く)鹿苑寺の境内を歩く。と、池の前でさーっと日が射すや、目の前の金閣寺がぱっと黄金に輝きだす。池にそのこがねの姿がはっきりと映し出され、極楽浄土とはかくもきらびやかなものかと感嘆させる、この世のものではない光の天上界の(足利氏が思ったであろう)絢爛豪華な黄金寺が蜃気楼のようにたちあらわれた。天と地の上下対称にゴールドの建造物。屋根の上の鳳凰は、いまにも飛び立たんとして、池のほとりのもみじは深紅に燃えあがる・・。

 金は光によって、さらに輝きを増し黄金になる、光とはほんとうにすべての色彩を一瞬に変えるマジシャンだと驚いたものだった。
 そしていま、菜の花の黄色は、光によって金色に輝くのだと気が付く。
 地上にふりおりた、金のいのち。
 まさに、はつはるのいのちの息吹を、生きとし生けるものが、みな等しく感じあい、響きあって歓んでいる。そんな気持ちになった。ひなたのあたたかさが、いかに人を平和に導くものか。すばらしい景色、開けた眺望がもたらす人体への効果。
 なるほど、天下人が高いところに住むのは、防衛面の利便性だけではなく精神にもたらす影響も大きいことを知っていたからだろう。多少の嫌なことや日々の些事から、いっときでも解放されるには、高い場所から俯瞰的に見下ろせる場所に行ってみることだ。そうすると、蟻の眼と同時に鳥の眼をもつことで、複眼的にそのときの自分と世界を把握することができると実感できる。
 山本義一は、この吾妻山の風景をよく描いている。



 今年の母親の年賀状には、この吾妻山の展望台を菜の花満開の東やから描いている絵を使った。よく見るカットであり、写真でもよく見かけるので、凡庸な絵のように思っていたのだが、はたしてこのように同じ風景に身を置いてみると、この陽光、はつはるのやわらかい光、雲が流れてくるとすぐに光が変化してしまう、あやうい早春の空気感をよくとらえているなあという気がしてきた。
 10月に二宮町生涯学習センターラディアンで行った山本義一遺作展の会場には、茅ケ崎デッサン会のメンバーの方がいらしてくれていた。彼は「二宮の光をよくとらえている」と言っていたのだが、なるほどその土地を知っている人にはわかることがあるのだなあとあらためて思う。二宮町の方々が、地元の絵が描かれていることをとりわけ喜んでくれたのは、そういうことばには表現しにくい空気や光や影や風の微妙な感じ、風土の匂いを絵によってあらためて意識したからだろう。
 そんな繊細な音楽のような、菜の花の香りのような、微妙な気配のなかに季節が隠れている。はつはるの妖精は、かくれんぼしながら、忍び足で近づいたり、さっと背後にとびすさったり、光をあびてうたたねしたかと思うと、昼寝から覚めた猫のように伸びをして、すぐそばで人の気配を楽しんでいる。
 お昼を食べ終わると、急に空が暗転してきた。
 あわてて吾妻神社に初もうでをして、おとたちばなひめに昨年の義一の絵画展の御礼を述べ母親の健康を祈願した。

 急いで山をおりて、ふとんをとりこまなくては。みかん畑に行ってみたかったのだが、ことしは暖冬のためみかんが早く収穫時期を終えてしまったようで、山のみかんも黒くなってややしなびているようだった。
 あたたかい冬はありがたいのだが、作物のことを思うと、これもまた異常気象になってしまうのかもしれない。自然を相手にするとは、こういうことなのだなあ、いいこともあれば悪いこともある・・、春のきまぐれな陽光のように。
 しかし、太陽は雲のうしろにどーんと存在している。
 闇あってこその光、光あってこその闇ではある。