山本義一の絵画2点が二宮町民センターに展示されています。

 クリスマスの次の日には、二宮の実家へ行き、その翌日に埼玉県の母のいる老健施設に行く予定であった。マイナンバーの手続きのため、母の委任状をもって、まずは町役場をたずねる。その足で、10月の山本義一遺作展のおりに二宮町に寄贈させてもらった絵のご担当者のところにうかがう。
 思えば、2015年は4月の沖縄県竹富島「ゆがふ館」ギャラリーでの展示にはじまり、名護市愛楽園「交流会館」での展示、「琉球新報天久本社ギャラリー」、ついで「那覇市ぶんかてんぶす館」会議室での展示、そして二宮町生涯学習センター「ラディアン」ギャラリーでの遺作展と、まさに父親の絵画展にあけくれた年であった。
 二宮町での展示にはたくさんの町民の方がいらしてくださった。とりわけ地元の風景画を気に入ってくれた方が多く、また絵が見たいという声が複数寄せられた。父親の一周忌法要の日には町長も会場にいらしてくださり、翌日にお目にかかることができた。二宮を描いた絵は町で活用してもらえればという意向を汲んでいただき、東大果樹園跡地の2点を寄贈できたのであった。
 ご担当の安藤さんは、実はもう絵を展示してあるんですよ、キャプションはまだですが、さいそくするのもなんだと思って」といいつつ、町役場の向かいに建つ町民センターに案内してくれた。

 この古い建物の3階の長椅子のところに山本義一の描いた東大果樹園跡地の絵が2点かかっていた。町民が自由に使用できる会議室の前にいたスタッフの方に頼んで、わたしの姿も一緒に撮影してもらう。携帯電話を修理に出しているためお試しでもってきたタブレットが撮影に役だった。





 東大果樹園は実家のそばにあり、約3万7千㎡という広大な敷地に今も豊かな自然がそのまま残っている。元園田孝吉男爵の別荘と梨の果樹園跡地で、大正15年に東京帝国大学がみかんの栽培のため吾妻果樹園を開設したという。平成15年に閉園したが、町が買い取り管理は町に移管されたという。
 敷地内には木造の学生宿舎、管理舎、内田祥三元総長の監修のもとに建てられた生産物加工室、園田男爵が建てた肥料舎が残っている。
 父の描いた学生宿舎は内田祥三元総長の指示なのだろうか、明るいピンク色のペンキで塗られた木造の建物が周囲の緑によく生えている。このピンクは今はもう色あせてなんとも渋い色合いになっているが、絵を見た方々が、かつてはこんなにかわいい色だったのかとおどろいていらした。なかなかに味のある建物であり、歴史的にも重要なものではないかと思う。
 正門には非常に個性的な大きな樹木があり、東大果樹園のシンボル的存在という貫禄でたたずんでいる。遺作展で絵をみてくれた町民の方々も、この門に愛着を感じているようであった。
 10月の遺作展に先立って行われた「ラディアン」展示で、タブロイド新聞
「しお風」の編集長・神保さんがくわしい写真と解説を公開していた。その解説によってわたしもまた、この2枚の絵がいかに町民にとって価値のある「お宝」なのかが、わかったのであった。
 東大果樹園跡地は、今後どのように町が活用していくか。まさに町の大事な財産である。将来、観光農園のように町民にも外部からの人にも内部を公開してもらえれば、父の描いた風景画をもっとよく知ることができるだろう。
神保さんは二宮の歴史散歩や町歩きのワークショップを企画しているので、ぜひ一度参加してみようと思っている。
 さて、今年も今日で最後となった。
 いろいろなことがあり、父の遺した絵画の整理もできてはいないし、保管状況も十分とは言えないが、それでも絵画展を開催したおかげで、戦争体験を語ってもらうのと同じくらいに、いやそれ以上のことを教えてもらえたのではないかと思っている。
それは絵を見てくださった多くの方々と同じ、血縁関係ということはまったく関係がない。絵と向き合うこと、絵の背景にある歴史や文化を知ることによって、その時代に生きた生身の人間の「おもい」を感じることが、いかに大切か。
 冬至の日の前日に青山ブックセンターで行われた鶴岡真弓の講演でも、彼女は力説していた。工芸やアートを鑑賞するのは、それを作った人々の「おもい」と出会うことなのだ、と。
 わたしが絵画を通して父親と出会う旅は、そして戦争を経験した方々のおもいと出会う旅は、まだまだこれからも続いていくだろう。
 その端緒につくことができたのが、ほかならぬ戦後70年の節目の年であったことに深い感慨をおぼえている。
ことしのブログ納めは、山本義一の2点の絵画がまた二宮町の住民の方々に(もちろんどこの方にも無料でいつでも)見ていただけることを報告して、筆を(キーボードを)置くことにしよう。
みなさま、ありがとうございました!どうぞ良いお年を!!