藤田嗣治の『アッツ島玉砕』と山本義一の戦争体験画

12月8日は、皇居一般公開に出かけ、その帰りに竹橋にある東京国立近代美術館で折しも展示中の「藤田嗣治、全所蔵作品展示」展をみてきた。

 4月に多摩美術大学の鶴岡ゼミの学生たちに山本義一の戦争体験画について話をさせてもらったときに、資料として藤田嗣治戦争画アッツ島玉砕』を提示したこともあり、本物をこの目で間近に見るまたとないチャンスと思い、広大な皇居内を歩き回りくたくたであったけれど、立ち寄ったのであった。
 本物の戦争画はしかし、写真や映像で見ていた印象とは少し違っていた。

 それは、なんというか奇妙な違和感、エキゾチックな不思議な感触を与えるものだった。
 『アッツ島玉砕』や『血戦ガダルカナル』に描かれる日本兵たちが、どこかアジアの国の兵士たちのように感じられた。白い歯を見せて叫び闘う兵士の表情やポーズが、まるで欧米の映画で描かれる日本人のような感じ、とでもいったらいいだろうか。日本人俳優でなく、アジアのどこかの国の俳優に演じさせている海外の映像をそのまま絵画にしたかのようだった。
そう、藤田は日本人の眼と言うより、まるでフランス人、レオナール・フジタの眼で目の前の光景をみているような・・。
 それは、展示作品のなかに掲示されている解説コーナーによって、合点がいった。
 藤田は、戦争画を多くの西洋の名画のシーンを参考にして描いていたのであった。
 たとえば、『血戦ガダルカナル』のなかの兵士が顎に手を突っ張りあって差し違える構図は、レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンや、ラファエロの壁画『ミルウィウス橋の戦い』にもあるらしく、「藤田がなんらかの参考にした可能性もあります」というのだ。
 ドラマティックな戦いの構図や兵士たちのポーズ。
 遠景としての風景の取り入れ方などは、名画モナリザにとりいれられている構成である。
 1913年、27歳でフランスにわたり、33歳のときにはサロン・ドートンヌで作品が入選していた藤田は、もうすでに例の有名な猫のいる丸メガネの自画像を描いている。
 まだ見てはいないけれど、小栗康平監督の映画でも、オダギリ・ジョー演じる藤田の姿は写真にそっくりで、監督はかなり忠実に藤田像を描いているようだ。わたしたちが思い浮かべる白い陶器のような肌をした裸婦も、藤田が日本に帰ってきたころ、もうすでにパリで評判になっている。
 そんな藤田が日本に帰国し、1939年、なんと53歳という年齢で陸軍省の依頼を受けて従軍画家として満州モンゴル国境に取材に行く。
 このときに見た光景だと思うのだが、1941年に藤田は『ハルハ河畔之戦闘』を描いている。いわゆるノモンハン事件である。

 山本義一は、このソ連軍の戦車部隊と日本軍が衝突した、双方が甚大な犠牲者を出した戦闘に自身も兵として参加したと言っていた。このときの義一の年齢は20歳である。
 わたしは、この横長の絵の前でしばし動けなかった。
 青空の広がる草原に立ち現われる戦車。遠くで黒煙が上がっている。
 匍匐前進しながら銃をもった日本兵が戦車に近寄っている。戦車によじ登る兵士、三名の日本兵は蓋というのか戦車の入り口をこじ開け、銃剣で突き、銃身でたたき、中にいるソ連兵を攻撃している。
 日本兵はピアノ線で戦車を横転させるなどして止めて、なかのソ連兵を襲うという肉弾戦を展開したという記録を読んだことを思い出した。この絵に接して、いかにその戦闘が悲惨なものか、隠れるもののない草原で生身の肉体のみを武器に死ぬ気でぶつかっていくしかない兵士たちの姿に衝撃を受けた。
 よく、父は生きて還ってこれたものだ・・。
 しかし、この絵が日本軍の荻洲中将の依頼によって『ノモンハンで戦死した部下の鎮魂のために描かれた』という解説の説明文を読んでさらにショックを受けた。
 多大な犠牲を出す戦いであったことは日本国民に伏せられており、荻洲の手元には藤田が描いた別バージョンの『ハルハ河畔之戦闘』があり、そこには日本兵の死体が転がる凄惨な光景が描かれていた、というのだ。
 『このふたつのヴァージョンの存在から、藤田の戦争に対する醒めた認識をうかがい知ることができます』と解説にはあった。
 藤田がはたして1939年にノモンハン事件を目撃したのかどうか。彼が見た戦闘は日本兵の死体が転がる悲惨なものだったのか、絵に描かれるように勇猛果敢な日本兵ソ連軍に打撃を与えるものだったのか。その両方であったのか。
 また、荻洲中尉はその2枚を見て、現在の絵のほうを選んだのであろうか。
 パリで成功をおさめ、日本に帰ってきて、従軍画家として取材に赴く53歳の、いわば熟年の藤田。画家としてはもちろん脂の乗り切ったころである。
 20歳前後の日本兵らの闘いを、彼は『醒めた』眼で観察したのであろうか。
 「アッツ島玉砕」は『負け戦にもかかわらず、くじけず一層力を尽くそうというメッセージを伴い大々的に報道され、藤田の絵は国民総力決戦美術展覧会に出品され』たという。絵の前には賽銭箱が置かれ拝む老若男女の姿があった、と新聞記事で読んだ記憶がある。
 『戦争画は、今でいう「メディア・ミックス(複数のメディアを組み合わせて宣伝効果を高めるやり方)的な存在でした(解説文)』。
 藤田は現場を取材し、醒めた目で構成を考え、西洋の名画を参考にして日本の戦争画を描いた。国威高揚のキャンペーンに協力しつつ、実験的に絵画を描く好機、あらたな画風にチャレンジする機会ととらえたのだろうか。実に、53歳から60歳までを戦争絵画を描くことについやしている。
 藤田の描く裸婦や猫は日本画の手法で、日本の筆で、描いている。実際に近くで画面を見ると、猫の毛の細やかなタッチに驚くほどだ。例の猫のいる自画像のなかにも日本の筆がちゃんと描かれている。
 藤田はフランスでは日本人としての資質を大いに生かした。フランスにあこがれつつパリでは異邦人であることを自覚し、最大限にそれを生かしたと思うが、ある意味で日本でも「異邦人」であったかもしれない。パリの、日本のなかのetranjerである。
 敗戦の翌年の1946年、「一説によると、戦争責任を負うよう美術界の説得を受ける」と解説にはあった。
 山本義一はこの年の夏、満洲の葫蘆島港から博多に引揚船で帰還している。藤田は1949年63歳でニューヨークへ、翌年パリにもどっている。
 20代の若者の見た戦争と、パリで成功した53歳の画家の目に映る戦争には、どのような違いがあるだろうか、同じ思いを感じただろうか。
 藤田の戦争画は戦いを誇張したようでいて、現実にはもっと悲惨な戦闘が繰り広げられていたという事実。
 山本義一は、過酷な戦闘ノモンハン事件も経験しながら、そのような戦闘シーンは記録としても残さなかった。戦争が終わったのちの過酷な環境の中で、目の当たりにしたであろう母と子の姿を描いた。それが生涯たった1枚だけの戦争体験画だ。
『噫、牡丹江よ!』はしかし、藤田と同じく、西洋の聖母子像の構図を参考にしたのかもしれない。山本義一も油絵のなかにまるで墨絵のお地蔵さんのような童子を、西洋のマリア像ともとれる母親像を描いている。
 闘いと祈り...。洋の東西を問わず、言語を介さずとも通じるイメージがそこにはある。
 戦争画を通して、学ぶこと、感じることはとても多い。
 戦後70年も終わろうとする2015年の12月、藤田嗣治戦争画を見て、父の戦争体験をあらためてみつめることができたことは、ほんとうによかったと思う。