竹富島ゆがふ館での山本義一の展示が延長になりました!

 竹富島ゆがふ館の阿佐伊拓さんからのメールで、山本義一の「竹富島赤瓦屋根の集落と星砂の道」シリーズの展示が1か月延長され、6月30日まで継続させてもらえることになった。ほんとうにありがたいことである。
 白百合クラブの若手のメンバーの方から、来年は結成七十周年にあたるので、協力してもらえないかと連絡があり、絵と音楽のコラボができたらなあと夢見ている。
 さっそく愛楽園の自治会長に連絡をとったので、もし白百合クラブのライブと山本義一の戦争体験画の展示が愛楽園で実現すれば、こんなにうれしいことはない。
 先日は、母のいる妹宅に行く前に、東松山市にある原爆の図 丸木美術館に寄ってみた。先だって、多摩美術大学で学生たちを前に戦争画について話した折、丸木位里・俊夫妻の『沖縄戦の図』をスライドでみてもらったばかりである。
 その丸木夫妻がいま母のいる東松山市に住んでいたとは。その住居が丸木美術館として原爆の図を常設展示しているとは。
 まったく知らなかったが、これもなにかのご縁ではないかと勝手に思い込み、見学に行ったのである。たまたま隣人の息子さんが丸木美術館の評議員をやっていることもわかり、短い時間だが、学芸員の方とお話しすることもできた。
 原爆の図は、広島・長崎に原爆が投下されてから70周年目のことし6月からアメリカでの展示が決まり、そのための募金をしているところであった。
 わずかであるが寄付をして、まずは2階の原爆の図の展示室へ。
 大きな屏風絵の迫力は実際に目の前にしてみると、強烈で、こちらがたじろぐほどであった。丸木夫妻は広島に原爆が落とされた3日後に、位里氏の両親の住む広島に入り、救援活動に奔走し、そのあと32年もの歳月をかけて原爆の図全15巻を描いたという。
 絵の前に掲示されている文によってまた、原爆というもののおそろしさがわかり、あらためてまた絵をみつめる、その繰り返しであった。
 なかでも印象深かったのは、墜落した米軍の飛行機に乗っていたアメリカ兵を日本人が虐殺している図「米兵捕虜の死」であった。女の捕虜も描かれている。日本人は原爆を落とされ、まさに地獄絵を体験しているさなか、アメリカ兵も日本人によって地獄を味わっている。死体となったあと、朝鮮人の死体が長く放置され、カラスたちの餌食になったという図「からす」も衝撃的であった。
 戦争は攻撃する国VS攻撃される国という構図だけでなく、その構造のなかに人種差別や憎悪をさらに入れ子状にかかえこみ、人間の理性を麻痺させてしまう。より残虐に、過激に、地獄を再生産していく。差別の輪廻から逃れられなくなる。
 直視するにはきついものがあるが、これを図という形にしたことによって、わたしたちはその歴史の中で隠れてしまう人間というものの本性について思いをめぐらせ、ぎりぎりのところで踏みとどまるチャンスをもらっているのではないだろうか。
 報復の連鎖を止めるには、個人のレベルでもどうすればいいのかを考えなくては,
と思った。
 地獄を体験した人間がおのれを浄化させるために描いた戦争画
 人間の行った原爆という地獄の実相を伝えるために描いた戦争画
 戦争というものを、戦後70年の今年こそ、考えるチャンスだと思う。
 竹富島ゆがふ館での山本義一の展示が延長されれば、6月23日の「慰霊の日」にも父の魂である絵は竹富島で多くの人の目に触れることができる。展示作品は戦争体験を描いた『噫!牡丹江』ではないが、「癒しとしての風景画」が、戦争で失われた多くの魂の慰霊となることをこころより願っている。