竹富島ゆがふ館展示準備に行きました。その3

 竹富島は5月の連休前である。それほど観光客も多くはなく、季節はいまがいちばんいいのではないかと思った。

デイゴの花は大きな木に少しだけ咲き残り、アカバナ―やブーゲンビリアは今を盛りと原色の花をこぼれんばかりに咲かせている。

 集落の辻辻に赤いアマリリスや白いてっぽう百合が咲いているのは、おもわず足をとめてみとれてしまうほどだ。

 そうそう、いまから69年前の旧暦の3月3日に、白百合クラブが誕生したのであった。
 そのときも、白百合が咲き乱れる石垣島白保のユリが浜で、20代の若い男女が浜下りをして唄い踊った。戦争で傷ついた自分たちを、集落のみんなを音楽で慰めようと自然発生的に始まったのが、白百合クラブであった。
 現在90歳になる会長の西玉得浩さんから連絡があって、現クラブ員の有志で竹富島ゆがふ館で行われている父・山本義一の展示を見に行ってくれるという。ほんとうにありがたいことだ。さいわいゆがふ館は港からすぐ近くではあるけれど、島内の観光は徒歩でなく車か水牛車観光をお勧めしたいと思う。スタッフの阿佐伊さんにもお願いしておいたので、白百合クラブのメンバーの写真をこのブログにもアップできたらうれしい。
 また、父にとっては姪にあたる、わたしのいとこたちも父の展示に合わせて竹富島へ行くという。これもほんとうに驚いたことであった。
 親戚が見に行ってくれる、とは。思わずそう言うと、いとこは言ったものだ。
「親戚どころじゃない、わたしの叔父さんなんだから」
 そうか、わたしにとっての父親は、いとこたちにとっての叔父である。
 そして、山本義一という個人である。
 そのことに、はっとさせられる思いだった。
 父の絵のお仲間や、近所の方々と話をしたときも、わたしの知らない父親の話を聞いて、義一が多面的に立体的に浮かび上がってくるような感覚があった。新しい一面が次々に顔をのぞかせるような感触があった。
 これは、そうノンフィクションを取材しているときに感じる肌触りそのものである。
 まさに山本義一という人間について取材しているのだなあ、と思えたものだ。
 父親が満州で勤務していた会社の写真付き引揚証明書や引揚者への給付金申請の書類。残された多くの油絵。そして、父を知る人々の話。それらをつなぎあわせて義一の生きてきた人生を、その片鱗をすこしでもリアルに感じることができれば、そしてそれをこのように、絵の展示で多くの方々に知っていただければ、ほんとうにうれしいことである。

 わたしが2005年に出した『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』(講談社)は、白百合クラブのメンバーだった故人を主人公にしている。
 彼の日記を引用した章は、いま読み返してもこころがふるえる。
 うつ病から回復して、それまでゲラ以降読んでいなかったこの本を手にとり読みだして、わたしは泣きに泣いた。主人公の日記は、まるでいまのわたしに、あの世から彼が語りかけてくる言葉のように胸に響いた。
 こんなに涙が出るものかというほど、7年分の涙を出して、それまでブロックしていたなにかが外れ、わたしは一気に感情をとりもどしたのだと思う。自分の書いた本であるけれども、自分ではない、ほかの誰かの言葉に救われた。
 会ったこともない、血のつながりもない、時代のまったく違う人とでも、このような出会いはある。そのような幸せな出会いを経験できてほんとうによかったと思う。
 父の絵が、もしそのような出会いで誰かの胸に届くことがあれば、それを心から寿ぎたい。こころのなかでわたしが山本義一との対話をしているのと同じくらい、いやそれ以上に、絵を見てくださる方々は、山本義一の魂に触れてくれるのであるから。

 光としての竹富島の絵、そして満州の戦争体験という闇を描いた絵。
 光と闇、その両面を、いつかどこかで多くの人に見ていただきたく思う。