竹富島ゆがふ館での展示準備に行きました。その2

 4月23日の朝、ゆがふ館に絵が届いていた。
 しかし、3個口で発送した荷物が2つしか到着していない。3つめは百号の絵である。
「よくあることなんですよ、船に積み残しているんでしょう」
 そう、スタッフの阿佐伊さんは言うのだが、いくら保険をかけているとはいえ、絵は弁償で済むというものでもない。なにしろ届かなくては展示ができない。紛失なんてことになってしまったら、どうしたらいいのだろう。
 あせったが、もうすこし待ってみようと、とりあえず到着しているふたつの荷をほどき、ゆがふ館の映像ギャラリーの壁に仮置きしてみることにした。

 実は、「竹富島の赤瓦屋根の集落と星砂の道」シリーズの絵は、2012年度版の私的カレンダーに12枚を使用した。のちに絵はがきも作成したのだが、このときにカレンダーを作っておいたことが意外と役立った。絵はがきもやはり見せる順番というのが重要なのだ。
 今回もその順番通りに並べてみる。そうすると、なんとなく八重山の春夏秋そして冬という流れがみえてくるような展示になった(とわたしは思う)。

 阿佐伊さんが百号の絵を掲げる場所を「ここがいいですよ」と言ったので、それに合わせて、6号と8号の絵を箱から出して壁に置いてみる。
 と、ウッディな壁に金色の額縁が映えて、なかなかいい。白壁ではないので、絵がどう見えるかという心配もあったのだが、なぜかこのギャラリーに合っているように思えた。
 位置を確認した後、百号が届いてから全部の絵を掛けるというので、いったんわたしは出直すことにした。船便会社に連絡すると、案の定船に積み残したままだったということで、夕方には必ず届けるとドライバーから電話があった。
 またしても待機である。
 ゆがふ館を出て、自転車で海岸に沿った道を走る。
 中世の集落跡、新里村遺跡を経て東御崎オンへ至る道だ。
 昨日はこの海でもずくを収穫したのである。
 そして、安里屋クヤマの墓の前の海に下りてみる。

 安里屋ユンタに歌われた絶世の美女クヤマは、役人のプロポーズを断り現地妻になることを拒んだ。島人たちはひそかに溜飲を下げ、クヤマを讃える唄をうたったといういうわけだ。
 クヤマの墓には『聖女 安里クヤマ之墓』という案内がたっていた。安里家の墓も隣にあり、3つの墓が海を向いている。古い珊瑚石灰岩を積み上げた墓の造りは、真知オンに似ていた。
 クヤマが生涯独身だったということは、安里家の子孫で物知りの歴女ならぬ歴オジー、安里さんに聞いたことがある。昨日竹富島へ渡る船で、安里さんと一緒に乗り合わせたのも、不思議である。
 実は山本義一も安里家の絵を描いている。
 今回はこの絵も展示するので、安里クヤマの墓にご報告と御礼に詣でたのだった。
 浜に下りると、干潮時間なのだろうか、ずいぶんと潮がひいている。

 緑色の草のような海藻が多く、緑色のサンゴの赤ちゃんもあちこちにみられた。
 このグリーンのサンゴは、昨日見た青い魚と並んでとても印象的な色彩だ。
 ちいさいけれども、生き物として実に存在感があるのだ。
 光を反射してきらきら光る海のなかで、サンゴや海藻がゆらゆらゆれているのはなんともうつくしい。海藻には小さな泡がいっぱいついている。彼らは地球の酸素を生み出してくれているのだ。
 海のなかの緑。海の森である。小さないのちを育む海は、わたしたちすべての生き物の母でもある。
 自分の意志を貫き通したクヤマの墓には、この海がとても似合っていると思った。
 夕方、ゆがふ館で待っていると、閉館時間の5時近くになって百号の絵がようやく届いた。あしたはもう帰らねばならない。
 展示準備は、阿佐伊さんにお任せすることになった。
 しかし、思いがけない出会いもあった。
 デザイナーの三村淳さんが夕方の船で竹富に到着。わたしの巣鴨の事務所の閉店パーティで会って以来である。三村さんは『ヤマト嫁 沖縄に恋した女たち』(毎日新聞社)の装丁をしてくださった。この本のカバーを外すと、民芸館所蔵の二百年前のミンサー帯の五四(いつよ)の絣文様が表紙と裏表紙にデザインされているのだ。このときは島仲由美さんにお願いして特別に撮影させてもらったのである。

 その由美さんが「真理子さんのお父さんの絵を展示をしているはずよ」と三村さんをゆがふ館に連れてきてくれたのだが、あいにく絵はまだかかっていない。三村さんには滞在中に見ていただくことにしよう。
 どうか多くの方に山本義一の絵を見ていただけますよう。
 『竹富島ゆがふ館展示によせて』という文を用意し、ホームページのインフォメーションに掲載した。阿佐伊さんがこの文も義一の顔写真も展示してくれるという。

 さあ、4月29日の連休初日、昭和の日にいよいよ山本義一の展示が始まります!