竹富島ゆがふ館展示会場での奇跡の出会い その1

 5月17日は、父・山本義一の菩提寺で施餓鬼供養が行われるため、わたしは大磯に向かっていた。その移動中のことである。
 携帯電話がなって、東京で八重山舞踊の研究所を主宰している赤嶺精子先生がおりしも石垣島に帰省中で、白百合クラブの会長・西玉得浩さん(90歳)を竹富島に連れて行ってくれるという。ゆがふ館で行われている山本義一の展示を見るためである。


 実は西玉得さんから連絡があり、同じく戦争体験者である父の絵を見に行きたいのだが、足の弱っている西玉得さんに万一のことがあっては、と心配するメンバーたちが一緒に行ってくれないのだと言っていたのである。2月にお目にかかったとき、西玉得さんは自宅から歩いて待ち合わせ場所の石垣市役所まで来てくださったが、転んでは大変だといって、帰りはみんなでタクシーに乗せたのであった。竹富島ゆがふ館は港からすぐではあるけれども、確かにバスに乗るほどではない、微妙な距離。船の乗り降りも高齢者には負担かもしれない。
 95歳で亡くなった父が満州に行っていたことを話したら、徴兵され長崎の軍需工場で働いていた西玉得さんは、「ぜひ見に行きたい、メンバーで誘い合って竹富島に行きたい」と言ってくださったのであるが、大事な会長のからだになにかあっては大変だというみんなの気持ちもよくわかる。
 そんなわけで、西玉得さんが山本義一の絵を見ることは残念だがむずかしい、そう思ってあきらめていた矢先であった。ありがたいことである。
 翌18日、所要で自宅のあたりを父の遺したシニアカーで移動中に携帯がなった。
 赤嶺先生がこれから竹富島に向かうという。石垣港までは西玉得さんの息子さんが車を出してくれたそうだ。
 なんと今日は、父親の姪たちと甥が竹富島へ父親の展示を見に行ってくれる日である。あわてて、姪に電話をすると、もうゆがふ館の展示は見終えて、竹富島の観光をしているところだという。残念!お互い顔の知らない人たちが竹富島で会うのは、よほどのことがなければ無理だろう。
 わたしはもうひとりに、あわてて連絡をする。
 平成8年に山本義一が竹富島に滞在して絵を描いているとき、民芸館のフクギの木の下で山下清のようにおにぎりを広げている姿を見かけ、室内に招じ入れてお茶を出してくれたのが、のちに神司に就任する島仲由美子さんであった。
 なんと由美さんは、赤嶺先生の親戚にあたるというのが、赤嶺先生との電話でわかったのである。由美さんが赤嶺先生たちを迎えに車で港に行ってくれると言ってくれたので、一安心する。
 この日は、大磯のあたりも気温が上がり、真夏のような日差しが容赦なく照りつける。
 わたしは夕方近くになって所要を終えて、一息入れようと相模国総社 六所神社に向かう。
 ここは、2005年に『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』を出したあと、伊豆への雑誌取材の帰途実家によって、父母とともに詣でた場所だ。昨夜実家に泊まった時、このときに撮影した写真が出てきたのだった。わたしはこのあとうつ病になり、実に7年間両親に会っていない。
 そのことをふと思い出して、境内にやってきたのだった。
 両親入院ちゅうも妹の車でここに立ち寄り、父母の無事を祈ったのである。
 祀られている櫛稲田姫命は夫の素戔嗚命を救うために自らを「本性なる奇魂」である櫛御霊に身を変えたという。そのお姿がお守りの小さなつげの櫛「湯津爪櫛お守り」になっており、女性の霊がこもっているお守りは困難から男性を守るという言い伝えがある。
 神社を参拝して、赤い毛氈が敷かれた長椅子に座り、涼しい木陰で一休みし、帰ろうとして時間を知るために鯉の泳ぐ池のほとりで携帯を取り出すと、知らないうちに由美さんからの着信記録が入っていた。急いで由美さんに電話すると、先ほど赤嶺先生や西玉得さんたちと、父の姪と甥が、ゆがふ館でばったり会ったというのである。
 「みんながそろっているときに、真理子さんに電話しようと思ってかけたわけよ。もう港へ送っていって、いまゆがふ館に戻ってきたところ」
 なんということだろう。
 西玉得さん、赤嶺先生、父の姪・甥が一堂に会すのは無理とあきらめていたのが、偶然にも会えたのだという。まさしく奇跡の出会い、ではないだろうか。
 その両者をつないでくれたのが、神司の由美さんであったことにわたしは驚いていた。しかも、六所神社で、父とここに来たことを思い出し、母の長寿を祈ったばかりの、このときに。
 後で姪に電話がつながり、姪ひとりと甥がゆがふ館に残っていてくれたおかげで、赤嶺先生たちと出会えたと知った。ギャラリーは15分おきに島の紹介映像が流れて真っ暗になってしまうので、「さっきから会場にいる人だなあ」とお互いに思ってはいたらしい。
 父親の描いた百号の竹富島の絵の前で、甥が記念写真を撮ってくれたという。
 (たしかに由美さんはこのとき携帯を手にして折しもわたしにかけている)



 そのあとに赤嶺先生とも電話がつながり、奇跡の遭遇をお互いに喜び、語り合った。西玉得さんは「なんとしても吉江さんのお父さんの絵を見なくてはと思っていたが、あんたのおかげで義理が果たせたよ」と赤嶺先生に言って、たいそう喜んでくれたそうだ。
 赤嶺先生が、このたびのもうひとりのキーパーソンであったのだ。
 偶然とはいえ、この時期に赤嶺先生が石垣島に法事のために滞在しており、由美さんと赤嶺先生は親戚であった・・。
 沖縄では女性が男性を助けまもる、「うなり神」信仰がある。
 六所神社の櫛稲田姫のように、由美さんと赤嶺先生の女性の霊力が、そして父の絵を見に行くことを企画してくれた姪たちの行動力が、こんな不思議な出会いをひきよせてくれたのかもしれない。
 いやいやもちろん、一緒に行った甥が写真を撮影してくれたからこそ、こうしてブログに紹介できるのではあるけれども。そして、ゆがふ館のスタッフ阿佐伊拓さんが、父の写真とわたしの本を芳名帳とともにおいてくれていることも甥の写真によってはじめて知ったのではあるけれども。
 あしたは二宮の吾妻山に登って、吾妻神社にも詣でようと思う。
 この神社もまた、夫の日本武尊を守ろうと海に身を投げた弟橘姫命が祀られており、その流れ着いた袖が袖が浜の由来になっている。