引揚記念館で山本義一戦争体験画の世界を実感しました。

 11月の末に、大阪での甥の結婚披露宴に出席した翌日、東舞鶴にある引揚記念館に行った。前もってウチナーンチュである学芸員の方とメールで連絡をとっており、当日は不在であることもわかっていたが、せっかく関西に来たのだから、と足を延ばすことにしたのである。京都から福知山線に乗り換え、約2時間。車窓からはもうそろそろ紅葉が終わり、熟柿が残る里山が見える。そののどかな風景は、父・山本義一のふるさと伊豆の山を彷彿とさせた。
 駅からタクシーでのりつけた引揚記念館の前には、折しもユネスコ世界記憶遺産に認定されたばかりで、幟がたっている。



 大型バスで団体の見学者も多く来訪するようであった。
 入ってすぐのテレビモニターにくぎ付けになる。
 沖縄に住んでいる満洲からの引揚者の方から、船で舞鶴に到着したとき、「船のタラップを布団を担いで降りてきた・・」というご両親のエピソードを聞いていたからだ。しばらく画面を見ていると、大きな荷物を肩に担いでいる男性がうつっていた。
 山本義一は、昭和21年に葫蘆島から博多に着いたという引揚証明書があり、舞鶴港に上陸してはいない。しかし、沖縄の山本義一遺作展の会場に来てくださった方は、自分たち家族は白山丸という引揚船で舞鶴に着いたと言っていた。はたしてここで見ていれば幸運にもそのファミリーの映像が上映されるかもしれないが、今日中に京都にもどる予定のわたしはのんびりしていると、5時の閉館時間になってしまう。



 映像はあとまわしにして、いよいよ展示会場に入ろうとすると、語り部ボランティアらしき男性が声をかけてくれた。その方の説明もあって、展示品をみながら館内を一周し、シベリア抑留者の描いた絵を展示したコーナー、収容所で使っていた生活用具、手紙や日記、紙の代用品として白樺の皮に抑留中の短歌を記した「白樺日誌」、当時の歌謡曲で引揚船をうたった『岸壁の母』などをヘッドフォンで聞きながら、大きな写真パネルをみているうちに、ふいに涙があふれてきた。
 それは、つらく厳しい満州での生活体験・抑留者の悲惨さを知ったからというより、帰還した人々を迎える舞鶴港での歓迎エネルギーに、祖国に帰れた引揚者の喜びに圧倒されたからだと思う。双方の歓喜のぶつかりあい、そこには生のよろこび、生きて帰れたことを寿ぐ、まるで祭りにも似たパワーがあった。
 もちろん、最初に船から上陸するのは、不幸にも帰国できなかった方の棺や位牌ではあった。
 しかし、港を間近にして、船の上からあふれんばかりの引揚者が身を乗り出して舞鶴で出迎える人々に手を振っている写真には、戦争を終えた日本国人がいままでじっと耐えていたエネルギーの発散が感じられた。外地で戦争に巻き込まれた人。戦場に駆り出された人。抑留者として悲惨な生活を強いられた人。家族を友人を親戚を待つ苦しさを味わったのちの、帰還と再会のよろこび。
 その写真には

『お帰りなさい!ご苦労様でした』
『復員者の皆さん、お帰りなさい』
舞鶴市民の真ごころの籠った歓迎ぶりに、
復員者たちも一斉に手を振り、
これに応えるように船上は忽ちどよめきと
興奮の坩堝と化して仕舞った

 とあった。
 舞鶴市民のもてなしぶりは、ほんとうに手厚いものであったらしい。
 茶をふるまい、ふかし芋をくばり、桟橋から町への道は迎える人の列で埋め尽くされている。 父もまた、博多でこのような歓迎を受け、祖国への帰還の喜びを味わったのであろう。
 そのとき、次々と訪れる見学者たちに港の模型を説明している語り部の方が、引揚船の名前を記した資料をくださった。そこで、大きなふとんを担いでいる引揚者の映像について質問してみると、どうやら彼にはこころ当りがあるようだった。
 事務室でどこかにその資料があるはずだといってくださったが、団体客もやってきて閉館時間はせまっている。
 今夜は東舞鶴に宿をとろう。そう決めて、駅前のホテルを教えてもらった。
 翌日の朝、引揚記念館へ行くと、昨日の語り部の方、岩田鶴松さんが資料のコピーをくださる。彼はわたしが関西から自宅に帰ってからも、沖縄の引揚者かどうかはわからないが、と断りつつも大きな荷物を担いだ方の写真入り資料を送ってくださった。ほんとうにありがたいことである。
 東舞鶴に宿泊したおかげで、またじっくりと展示品を見ることができた。学芸員の長嶺氏に挨拶して、小学生の団体とともに見学していると、岩田さんが女性館長を紹介してくださった。立ち話ではあったが、『噫、牡丹江よ!』に描かれている10〜14組もの母子像のことを話すと、山下館長は言った。
「実際にそれがお父さまが見た光景だったのでしょうね」
 最後に「いいご縁をいただきまして」ともおっしゃってくださった。
 山本義一がその目で見た、引揚船を待つ人々の群れ。
 それは、母と子どもたちが、飢えと寒さと疲労の中で、徹夜で船を待ちながらかろうじて生をつないでいる光景である。引揚船に乗り込めたのは、そして、日本の港で歓喜の声に迎えられたのは、そのなかのどれほどの人たちであったろう。
 失われた小さき命への鎮魂と浄化。
 『噫、牡丹江よ!』という戦争体験画に込められた祈りは、生き残った引揚者の思いの昇華のためでもあったのだ。