「おきなわんナイト」に寄稿した文「命どう宝」を紹介します。

 命どう宝  ぬちどうたから

「命こそ宝」という沖縄のことばは、深く重層的な意味をもち、いまも息づいています。
 初出は、一九三二年の戯曲のセリフ『戦世もしまち、弥勒世もやがてい、嘆くなよ 臣下、命どう宝』。琉球王国最後の王、尚泰王役の役者のアドリブとも、作者の文ともいわれます。
 わたしなりに訳せば、「いまは戦の世の中だけれども、きっと平和な世の中がやってくる。家来たちよ、嘆くなよ、命を粗末にするな、生きよ」とでもなるでしょうか。
 薩摩に侵攻され琉球王国は時代の変化の荒波に翻弄されていく――。しかし、時代がどう変わろうとも、庶民にとっては、(いや国王でさえ)命こそが大切な宝だというメッセージは、太平洋戦争中、重要なキーワードとなりました。
 丸木位里・俊夫妻の描いた『沖縄戦の図』のシリーズのなかに、ガマ(洞窟)のなかで住民たちが集団自決した(させられた)地獄絵を描いた絵と、誰もいないガマを描いた絵があります。
「敵に辱めを受けるよりは死を」と教育されたために、親が子を、男が女を、殺しあったガマ。
 一方、ハワイ帰りの移民が「アメリカはひどいことはしないから白旗をあげて出ていこう」と説得し、全員が投降し一人の死者も出さなかったガマ。
 かたや地獄、かたや天国。
 生死を分かつことばは、まさしく「命どう宝」でした。
 日本で唯一の地上戦の舞台となった沖縄では、多くの民間人が犠牲となりました。夫や兄弟、恋人を亡くした女たちは「命どう宝」を合言葉に、生きていることを寿ぎました。「銃剣とブルトーザー」で強制的に先祖の土地を奪われ基地にされても、子を養うために働きました。
 沖縄のおばあが元気なのは、当然です。戦禍を生きのび、子や孫を育ててきたのですから。
 わたしの父・山本義一は満洲での九年に及ぶ陸軍兵としての戦争体験を、生涯でたった一枚だけの戦争体験画『噫、牡丹江よ!』に表現しました。
 敗戦後に引揚船を待つ人々の行列を描いたもので、赤子に乳を与える母親や幼子を連れた母親たちが十四組。徹夜で船を待って行列している光景を描いた絵です。
 赤子は飢えて死に、幼子は中国残留孤児になったり、栄養失調のため命を落としたり、生きて日本に帰れたこどもは僅かだったでしょう。
 過酷な戦闘から生きのびた二十代の若い父が見たのは、戦争で犠牲になるのは、女や子どもだという、よりシビアな現実でした。
 九十五歳で他界するまで戦闘体験の話は聞かないままでしたが、絵描き仲間に「逃げるが勝ち」と語っていた、と十月にここラディアンで行った三回忌展ではじめて知りました。
 敵を殺すくらいなら逃げるが勝ち、と。
 まさしく「命どう宝」であります。
 辺野古新基地建設に反対するおばあの印象的なことばがあります。
 三上智恵監督の映画『戦場ぬ 止み』に登場するおばあは、「海からの恵みで自分たちは命をつないできた、海は命、命どう宝」。だから、命を養ってくれた海を殺すわけにはいかない、命の海を守るのだ、と。
 本日十一月五日は、山本義一の命日です。
 この日に、二宮町で父の描いた竹富島の風景画をご覧いただけることに、不思議な縁を感じます。
 戦争で破壊される前の沖縄の原風景を、今も残そうと守られてきた竹富島の町並み。光あふれる島の風景を描くことで、義一はこころ癒され、自らの戦争体験を浄化し、祈りと鎮魂の『噫、牡丹江よ!』に表現できたのでしょう。
 今宵のフェスティバルのエンディングは、灯りづくり&キャンドルセレモニー「命どう宝」。
 多くのみなさまとともに、いのちを寿ぎつつ、いのちに祈りを捧げたいと思います。
                              
                              吉江真理子