いよいよ山本義一遺作展vol.2が10月4日から始まります!

 11月5日は父、山本義一の命日である。
 はや三回忌を前に、三回忌展を行う運びになった。
 去年会場となった二宮町生涯学習センター『ラディアン』にいらしてくださった方々のお名前が書かれた芳名帳を開いて、案内のハガキを送る作業に追われている。

 また、展示作品のタイトルをつけるために、パネルに印刷した文字をはっていくハリパネつくりも、ようやく一段落した。先日は、アトリエとなっている三階の狭い部屋を探してみると、おそらく地元二宮を描いたのではないかと思われる絵が10数点ほどみつかった。昨年は展示していないもので、今回は二宮の風景画を多く展示しようというこころ積りだったので、さっそく搬入作業をお願いしている方と、その方のお知り合いで元郵便局員の方とともにロケハンに出かけた。
 絵の写真をもって、車で二宮町を移動する。
 ここではないかと思われるところで車をとめて、降りて描かれた場を確認し、「ここでしょう」とすぐに判明するものもあれば、おそらくここではないかと思われるけど・・、という絵もあった。
 というのも、昭和62年に二宮に移住してから描きはじめた油絵は、現在はだいぶ風景画変わっているため、昔の風景を知る方でないと、わからないのである。元郵便局員の方は、さすがに当時から現在に至る変化をご存じで、昔の地図ももってきてくださっていた。二宮は新しく造成したエリアが多く、なんでもない住宅街や里山と家々の風景など、けっこう特定するのに苦労をする。
 寺社仏閣の絵も結構多い。
 二宮に来るたびにずっと気になっていた妙見神社の絵もあった。
 現在は鳥居もなくなっているため、遠くから見ていると、絵とだいぶ違って見えるのだが、近くまで行ってみると百八段あるという階段の前に、かつてはあったらしい鳥居の跡がしっかりのこっていた!
 元郵便局員の方が「大応寺の向かい側、鬼門にあるので建てられたんだ」と教えてくれる。いまや神主さんも不在の神社のようだが、たしかに大応寺と道路(新道・旧道)を隔てて向かい合っている地形をみると、ふるい昔の町づくりの構造がすけてみえてきてなかなかおもしろい。
 昨年は、展示しなかった弓道場の絵も2点、こんかいは展示できないものかと考えている。弓道場の絵を使った平成22年展示のお知らせハガキが残っていたからだ。
 しかし、昨年は絵をご覧になった搬出の方が、なんと弓道をやっており、「これは衣装や手にはめる革製の手袋がないなどの間違いがあるので展示はやめたほうがいいですよ」とアドバイスしてくれたので、見送ったという経緯があった。

 自分の目で確認してみようとひとりでロケハン中、弓道場を通りかかると、平日の昼間だが練習しているようだ。おもいきって声をかけると、あらわれた代表の方は、なんとそのアドバイスをしてくれた方、今回も搬出をてつだってもらう方だったのである。その方に頼んで、父は弓道の絵を描いたのだろうか・・。
 翌日、「父は見学をおねがいしたのでしょうか」と聞いてみると、なんともおもしろいことがわかった。
 父は89歳のとき、弓道場に来て習いたいと申し出たというのである。
「年齢を聞くと、もうすこしで90歳だというので、お断りしたんですよ。当時は入門の年齢制限が70歳まででして、いまはこれが65歳になっているんですがね」という。
 高齢者は教えるのに時間がかかってしまうので、ということだったが、わたしは仰天した。新しいことを始めるのに、とりわけいままでやったことのないスポーツを始めるのに、90歳を目前にして申し込みに行ったとは!
 ふつう、なにかを始めようかなあと第二の人生で趣味を広げるのは、せいぜい60代ぐらいじゃないか、と勝手に思い込んでいたわたしは、この父親の話に脱帽した。いくつになっても、なにかを始めるのに遅いということはない、そう思っていた父。わたしのほうがよほど凝り固まった考えに縛られているではないか・・。
 日本陸軍兵士として満州に行っており、9年もの長きにわたる満洲生活を経て引き揚げてきた父。ノモンハン事件も経験しており、おそらく生死の境をくぐり抜けてきただろう。精神的にも肉体的にも、年だから○○ができない、とかなにかを始めるのには遅すぎる、といった自己規制がなかったのは、そんな体験もあったからなのか。
 20代から描き続けてきた絵を、退職後はおもいっきり描きたいと移住してきたのは、ふるさと伊豆の風景にどこか似ている二宮であった。
 父の実家は櫓八丁という屋号なのだが、これは秀吉の小田原城攻めのときの水軍の家臣が、逃げ延びて移り住んだことに由来しているらしい。櫓が八丁も要る大きな船を操る一軍の名残なのだと、きいたことがあった。
 武士道精神をいまもつたえる弓道を、なにかの思いがあって父親はやってみたかったというのだろうか。
 後日、施設にいる母にこのことを話すと、
弓道がやりたいと申し込みに行って、断られたと言って、が〜っかりして帰ってきた」というではないか。
 であれば、残っている2点の絵は、また新たな意味をもつ。
 弓道をする人を描きたいからと入門申込みに行ったのか、それとも断られたので自己流で描いたものなのか。
 たしかに弓道場は道からのぞかせてもらうと、右利きの人が背中を向けて弓を扱ううしろ姿しか見えない。奥に入ってそのひとの前面にまわりこまないと、装束や手袋などこまかい点が見えないのである!
 それでも、弓を射る人の向こう側にまわったつもりで想像で絵を仕上げ、展示のときの絵はがきにまでしているのであるから、ほんとうに弓道をやりたかったのかもしれない。なにかの思いを重ねていたのかも知れなかった。
 そんなわけで、今年は絵をコラージュしてでも展示できないものかと思案している。
 三回忌の展示であるから、父親のやりたかったであろう絵を展示するのもけっして意味のないことではない。90歳前にして新たなことに挑戦しようとしたチャレンジ精神に免じて許してもらえるよう、工夫してみたいと思う。
 そして、昨日の朝、またまた面白いことがあった。
 展示ハガキをお送りした芳名帳の記載者の方から、突然電話があったのだ。
 きけば、中井町という二宮の隣町の方だった。
 わたしはこの偶然にまた驚いた。
 実は、中井町厳島神社を描いたのではないかという小さな絵が追加ででてきたばっかりで、ロケハンしていないので特定できないため、展示するかどうか迷っていた作品があったのだ。
 さっそく、「中井町には、水辺に木の橋があって、その橋の先に小さな神社がありますか?」と聞くと、湿生公園内にある弁天さまだと教えてくださった。
「その絵を見に行きますよ、楽しみだわ」と言って電話は切れた。
 いろいろなことがタイムリーなタイミングでわかってくる感覚は、そう、取材時に感じるものと相通じるものがある。
 わたしは、父山本義一の三回忌を前に、絵を通して山本義一という人を取材し、その生をたどり、すこしでもその思いに近づいていっているのかもしれないなあ・・、そんなことをふと思った。
 10月4日〜7日までのラディアン展示のあとは、東京大学二宮果樹園跡地で山本義一の描いた果樹園跡地の宿舎の絵を展示しつつ写生会が開催される。
 その写生会の参加作品と、義一の絵数点は、二宮町ふたみ記念館で10月9日から16日まで、「しお風」新保さんとの共催で展示されることになっている。
 ぜひ、おおくのみなさま、ラディアン展示、続く写生会に、さらにはふたみ記念館の展示にお運びくださいませ。