両親入院の疾風怒濤の日々を振り返れば・・・その3 入院中のクレヨン画

 母親が整形外科に、父親がICUに入院という非常事態は、父親が一般病棟に1週間後に移れたことでまた新たな局面に入った。同じ病院の上階と下の階というのは、今思えば遠方から通うわたしたち家族にはありがたいことである。
 しかし、一般病棟に移ってあるやっかいな問題が起こる。
 95歳まで大きな病もなくやってきた父親は、お世話をされることに慣れていない。なんでも自分でできることは自分でやろうとする。1週間で危篤状態から復活した生命力があるのだから、それは本来は称賛されるべきことだろう。しかし、とりわけ夜間の看護体制は、人手が足りないのが現実だった。トイレに行きたくてナースコールを押してもすぐに看護師が来てくれるとは限らない。
 ICUから移動した翌朝、病室に行くと、ベルトのようなものでベッドにくくりつけられている。「あら、腰痛ベルトかしら?」そう聞いたが、父親は答えない。看護師に尋ねると、父親が立ち上がろうとしたから拘束したという。しかも鍵をかけられ、鍵をもっている看護師でないと、外せない。
 そういえば、ICUに入院した時、拘束についての書類にサインしたことを思い出す。これだったのか。しかし、患者が転んだりしたら病院側の責任になるのだから仕方ないのか。夜中に寝返りも打てず、うとうと眠りについて目覚めたら拘束されていた、という恐怖。回復しようと頑張ることが罰せられるという矛盾。それは、肝心の病気の心臓にとっていいことなのか。心が千々に乱れるが、その日わたしはなにも手を打たず帰ってきてしまった。
 翌日、家族がいるときは外してもらうように頼んだのだが、それから父親の様子が変わっていった。口が回らなくなってきた、と本人も言う。心身の拘束によって、高齢者がボケることはないのだろうか。からだの自由を奪われることは、こころの自由を奪い、人間の尊厳を傷つけることではないのか。
 看護師に頼んでも、患者のためという理由で外してもらえない状態が続き、妹とわたしはドクターにかけあうことにした。外来患者の診察が終わったドクターとばったり会い、診察室で話をする。危険防止のためやむを得ないと看護師からの報告を受けているというドクターだったが、話をすると、実に深い思いやりがあった。
 妹が、父親が立ち上がろうとしたという事実はなく、必ずこれからはナースコールを押して看護師が来てくれるまで待つよう本人に言い聞かせますから、と伝える。
 わたしは自分がハンセン病の元患者の方々に取材したときのことを話した。
 元患者たちは、自由を奪われ拘禁拘束されていたことの恐怖を、つらさを訴えていた。いまでもその心の傷を抱えている。国家による社会からの隔離が心身に与える影響の大きさを、取材で知った・・。そこまで話すと、
 「拘束と同じ、ということですね」
 そうドクターは言ったのだ。
 翌日、父親の拘束ベルトが外れた、と妹から携帯に連絡があったとき、わたしは所用を済ませて病院に向かうところだった。ほんとうによかった。心から安堵する。

 翌日、病室へ行くとベッドには父親はいなかった。ナースに案内されて、病棟のサンルームへ行くと、車いすの父親がスケッチブックにサインペンでスケッチを描いている。
 広い窓から目の前に広がる湘南の海。
 入院後初の絵であった。
 拘束という心の傷を癒すために、父親が描いたスケッチ。それは、今見てもその後何枚か描いた絵のなかでもいちばんいい仕上がりだった。わたしを見ると、父親は「クレヨンをもってきてくれ」と言った。
 それから、午後のひとときをサンルームで絵を描くのが日課となり、ときには母親も誘って車いすの両親とともに、海を見て過ごす時間があった。
 アートが人の心をなぐさめ癒し、そして気持ちを切りかえるきっかけとなる。
 看護師も入院中の患者さん、そしてドクターも父の描いたスケッチを見に来てくれるようになった。病院でのコミュニケーションが上手とはいえない父だったが、絵を描くことで周囲から個性をもった人として認識してもらえたと思う。
 絵は父親にとってコミュニケーション・ツールでもあったのだ。