愛楽園交流会館での展示準備に行きました。その1

 8月17日から那覇に入り、翌18日に沖縄のふたつの新聞社、沖縄タイムス琉球新報を訪ね、20日からの愛楽園交流会館での山本義一展のプレゼンをさせていただいた。
 ありがたいことに翌日19日には沖縄タイムスに、社会部記者の松崎さんの取材記事が掲載された。琉球新報は22日に文化部記者の高江洲洋子さんの記事が紹介され、両方とも愛楽園自治会で新聞を見せてもらった。
 18日に那覇バスターミナルから高速バスで名護に向かい、長年この地に住み、辺野古の新基地建設反対運動のルポを書き続けている作家の浦島悦子さんの車で愛楽園に向かう。途中で辺野古第2ゲートで座り込む人たちの前を通って羽地に入った。
 愛楽園に到着したのはもう日が暮れようとする頃。
 あしたから交流会会館での展示準備に入ろう。

 自治会長の金城雅春さんに電話すると、ゆっくりやってください、とのやさしい言葉。愛楽園敷地内にある食堂で遅い夕食をとると、浦島さんは夜道を帰って行った。
 宿舎はほぼ満室で、長崎から平和学習の高校生と引率の先生、ボランティアガイドの方々が宿泊している。6月にオープンした愛楽園交流会館では、ハンセン病の歴史を貴重な写真と資料で展示している。入所者、退所者の証言とともに、おそらく多くの来訪者がその写真資料に衝撃すらおぼえるのではないだろうか。

 とりわけ、戦争中の愛楽園がどのような状況であったかを紹介しているコーナーは、わたしもまたいままで知らなかったことがたくさんあった。戦後70年の節目の年に、ハンセン病療養所がどのように日本軍、そしてアメリカ軍によって扱われてきたのかを明らかにすることは意義深いことだと思った。
 戦場となり、アメリカの施政下に置かれた沖縄である。
 沖縄のハンセン病元患者の方々の歴史は本土とはまた異なる特別の事情がある。比較することは適当ではないが、本土に比べて、悪いこともあればいいこともあった。
 ウチナーンチュならではの家族を大事にする気質が、断種政策の中でも子どもを産むことを容認することにもなり、一方では狭い地域の中で世間体を考え、一番理解者であるはずの家族から理解が得られないばかりか、家族であることを隠そうとする方向にも向かう。
 歴史に翻弄されたという一言ではくくれない、重い、深い、またさまざまな重層的な事情が、ひとりひとりの物語に封印されてきた。それをこのように光をあてることがいかに大切か。交流会館1階の展示は、時間をかけて見学したいものだとつくづく思った。
 貴重な資料を、学芸員の辻央さんと研究員の鈴木陽子さんが解説してくれる。入所者の方、退所者の方、ボランティアガイドの方の生の声を聞きながら、ぜひこの機会に多くの方に愛楽園を訪ね、美しいビーチとともに深い歴史を知ってほしいと思う。

 翌日、辻さんと鈴木さんとで、二宮からの120号、竹富島からの10点の山本義一の絵の展示の準備に入る。初日には自治会長の金城雅春さんが顔を出してくれた。久しぶりに会長に会う。さらには自治会の森幸健さんも展示の手伝いに来てくださった。


 キャプションをあらたに作ったり、展示のための掲示文や冊子を作成したり、交流会館のおふたりのスタッフの方にはほんとうにお世話になった。
 何しろ、素人のわたしが経費削減のため梱包搬送した120号の絵は、搬送途中であちこち梱包資材が破れたり、穴が開いたり、またシーツでくるんだ絵に布の繊維がはりついていたり、まったくもって大変なことになっていたらしい。
 この展示に先だつ増田常徳展はまさにプロの大画家の展示、プロの搬送技術をすこしでも学ばないといけないと、反省しきりであった。
 そういえば、那覇沖縄タイムスを訪ねた折、ちょうどギャラリーでお弟子さんたちの絵を展示中の喜久村画伯と話をしたときも、絵を額装するときのやり方についていろいろ教えてもらったものだった。
 絵は人に見てもらうためには、見えないところで手をかけてやらねばならないのだ。
 すっぴんよりは、しわをのばしてお化粧しないと見栄えもしないのである。
 愛楽園でパソコンを借り、(ワイモバイルも使えない)キャプション、掲示文、冊子の文作りに2日ついやしてしまった。しかし、用意してくれていたチラシとポスターの日付は、20日からではなく8月22日からであった。