山本義一遺作展は、お客さま同士の交流がすばらしい!

 ラディアン展示では、多くのお客さまがわたしの足りないところをカバーしてくださった。これはほんとうにありがたいことであった。
 初日の朝は、搬入時に頼んでいた方だけでなく、なんと筑波大教授として中国語・中国の歴史に造詣の深い中井英基先生がいらしてくださった。なにか手伝おうかといってくださるのだが、先生に肉体労働をさせるわけにもいかない。が、先生はわたしが脚立に乗っているときに、足を支えてくれたり、スタッフに話しかけたり、ムードメーカーとしてもすばらしかった。
 父親の絵画教室に通ってくれていた渡辺セツ子さんは、お仲間と連れ立ってきてくれた。オアシスでよく一緒にお昼を食べていたり、ボランティアで針仕事をしたりしているお仲間たちとも、わたしはよくオアシスで出会う。渡辺さんと一緒に絵を描いているのだという。

 奈良淑子さんは、美大を出ているアーティストである。8日の写生会では指導役をお願いしている。会場に来てくれた奈良さんの手を見て、わたしは仰天した。
 ツボに古代文字が描かれている!
 なんとわたしが頸椎症をなおしたくて通っている気功教室・健臨会の片野先生の本を買ってご自分で描いたのだという。肩が痛くて夜も起きてしまうと聞いて、その場で片野先生に電話して、ツボと文字を確認した。なにしろ、奈良さんはこの展示のあと、東京大学果樹園跡地での写生会でがんばっていただかなくてはならない。肩が痛くては、絵どころではないのだから。
 奈良さんが、琉球大学の比嘉教授のEM菌を使って葛川を浄化しているのを知って、沖縄で比嘉先生に取材したことのあるわたしは驚いたものだったが、またまた片野先生の本の読者だったことに、なんとも不思議なものを感じた。
 今回は、二宮の風景画をたくさん展示したのだが、意外や二宮の方々もどこを描いたのかがわからなかった。山本義一は、名所というよりは路上観察的な視点で、あまり人が絵に描かないような、なんでもない風景を切り取って描いている。さらに昭和60年代にはあった、建物や家がなくなったり、神社の鳥居がなくなっていたり、茅葺き家の旧家の屋根が変わっていたり、絵画に描かれた風景が、いまとは変わっている。
 萬年堰を築いた萬年氏がご先祖だという水島さんが、昭和60年代の地図をもってきてくれたり、会場にいらした井上さんは、二宮の郷土史ほかの貴重な本を貸してくださった。

 井上さんは、さらに弓道の練習をする人の絵を見て、平安時代弓道は、今とは違うスタイルだったと、弓道の本をもってきて説明してくださった。そういう意味では、山本義一の描いた想像の弓道の練習をする人の姿が、壁で隔てた狭いコーナーに押し込められて展示されているのでなく、堂々とエントランスと出口を飾るのは、あながち間違いというわけではない、と安堵したものだ。
 井上さんはたびたびいらして、弓道の絵の展示を移動してくれた切り絵作家の男性と、だいぶ話し込んでいた。
 わかいひとに自分の知っていること、歴史や戦争や地域の昔の姿を伝えたいという思いは、彼にも伝わったようだ。「若い人に手渡したい、知ってほしい、伝えたいという気持ちがびしびし伝わってきた」と彼は言ったものだった。
 このように、お客様同士が出会って、語り合い、伝えあい、二宮について知っている方が知らない方に、昔からの住人が新たに移り住んできた人に、さまざまな情報を伝達する場になっていることが、ほんとうに楽しく有意義で、うれしかった。
 絵画展の現場が、二宮の魅力を語り合うサロンになっているのである。
 また、父親に絵を習っていたという、熊沢夫妻、伊藤さんもいらしてくれて、会場で出会って、たがいに山本義一と一緒に戸外に絵を描きに行った時の話をしあっていた。父は非常に厳しい指導をしたことは、多くの方から聞いている。

 趣味ですから、といっても許さず、あくまで絵を描くことにおいては、妥協を許さなかったようだ。ま、それで、ついていけないと辞めていかれたお弟子さんもいたという。
 わかる、わかる。
 90歳を目前に、弓道に入門しようとした父である。
 自己限界など設けず、強い意志でコツコツと自分で自分と向き合い、ただただ絵を描き続けていた父である。
 そんな父親の、アマチュア画家の絵に対する姿勢を知って、わたしははじめて知る父親像を興味深く聞いた。
 そんなふうに絵を通して、二宮について知ったり、あらたな父親と出会ったり、ほんとうにお客さまには教えられることばかり、である。