両親入院の疾風怒濤の日々を振り返れば・・ その1

  2014年は、夏から秋、そして年末までほんとうに全速力で駆け抜けた時間であった。
 7月11日に父親が救急搬送されたという連絡が入った。
 わたしは翌日に親友の息子の結婚式に出席する予定であったため、迷った末に13日に病院へ行くという選択をした。
 父親より友人を優先するのかと思われるかもしれない。
 実は、友人には手術後の後遺症があった。息子の結婚式に新郎の母として長時間座っていられるのか心配もあり、もう一人の友人とともに新郎の両親の座るテーブルに着き、彼女をサポートすることになっていたのだった。
 無事にこの慶事の日を終えて、翌日に東海道線に飛び乗ると、妹から携帯に電話があり、母親が玄関先で転倒、いまその救急車の中だという。仰天したが、ちょうど母親の搬送先病院の駅の手前であったので、途中下車して急きょ母親の入院している病院へと向かうことにする。
 母と妹はこの日、父親を見舞おうとしていた。
 母親は玄関のドアを開けようとして、そのまま体操選手のようにころんと一回転して玄関の階段の上に転び、起き上がれなかったという。
 診断は大腿部骨折、すぐに緊急手術で人工関節を入れる必要があるのだが、手術は3日後しか空きがないと担当医から説明をうける。
 父親はどんな様子だろうか。
 父親の病院は隣の駅の大学病院である。さて、どうしたらいいのだろうか・・。
 急いで父親入院中の大学病院に電話し、母親の手術受け入れを希望する旨を伝え、わたしと妹は父親を見舞うため、妹の車で大学病院に向かった。妹の説明によると、父親は夜中に胸が苦しくなって救急車を呼んだという。
 95歳の父親は、2年前に診療所で心臓の大動脈弁の開閉不全を指摘されていた。
 これまでは心臓の症状がでていなかったけれど、やはり・・・。
 家族のだれもが覚悟をせざるをえないだろう。
 大学病院の救急搬送時の担当医は、「このまますーっと亡くなってもおかしくありません」と妹に電話で伝えてきた。妹はそれを聞き、夜中に埼玉から車を走らせて駆けつけたのだという。
 一方、わたしはといえば、友人の息子の結婚式に出席して1日遅れで到着したのであるから、なんとも親不孝ではある。
 ICUに入り、ベッドに近づくと、父親は点滴と心電図の管をつけていたが、目を開けて「ああ、来たのか」と声を出した。父の容態が思っていたより安定していることにほっとする。意識があるということのありがたさ。
 しかし、母親が救急搬送されたことは、この日、父には言えなかった。
 そして翌朝、父親の大学病院から携帯に電話があった。母親の手術を引き受けてくれるという。(この項続く)