いまこそ、貨幣価値に変換不能なストーリーを、もっと物語を語ろう!

1月に二宮町へ行き、菜の花満開の吾妻山に登り、まっしろな雪をかぶった富士山を満喫した。
 都内に比べても二宮町はあたたかく、気温は体感でも2,3度は高いかもしれないと思えた。


 翌日、一石洋子町議と会ったときに、またなかなかいい話を聞いた。
 人間だけが、ほかの動物と異なり、なにかを想像したり空想したりして、創造できる生き物なのだと。猫や犬もわたしたちとコミュニケーションできるのはもちろんだが、イメージを膨らませて何かを創造するのではない、らしい。
 でも、実家で母がかわいがっている猫は頭がよく、こちらの感情を理解しているとしか思えないような、思いがけない反応をすることがあった。昔飼っていた三河犬も賢くて情感豊かで、こちらの感情をなだめたりなぐさめようとしてくれた。
 イルカやベルーガはどうやら、人間とコミュニケーションをとろうとしたり、人を癒そうとしたり、不思議な能力で異種間交流をしてくれる生き物であるらしい。
 わたしたち人類は、そのような動物たちとの交流のなかから、さらにある分野の脳の働きを発達させてきた生き物ではあるだろう。
 ラスコーの壁画がいま展示中であるが、あるときから人類はなにかを伝えるために、洞窟の壁に絵を刻み、言語をつかさどり、文字を使って、物語を仲間や子孫に残すようになった。
 アートはまさに、この人類がもっている「なにかを想像して創造する力」だろう。
 しかし、いまわたしたちの表現力は、この能力を機械によって矮小化していないだろうか。
 わたしは長く雑誌のライターをしてきたおかげで、字数制限のある原稿を書くのも、そんなに苦ではない。週刊誌のライター経験のおかげで、何字以内におさめるとか、レイアウトに合わせて書くとか、あるいは書いた文章をレイアウトに合わせて削っていくのも、得意なほうである。まるでのみでけずっていくようにして、身を削るようにして、雑誌の文章の場合はかえってすっきり整えることができる、ということはある。(これは詩ではない場合に限るし、最低限の文字量というのは確保されていることが条件であり、著書の場合はこの限りではないのだが)
 しかし、いまわたしたちは自分たちが発明したパソコン、スマホタブレットによって、コミュニケーション能力を低下させているのではないだろうか。
 少なくとも、機械に合わせている。ツイッターの文字数に自分のいいたいことを合わせている。
 携帯のメールの字数に合わせて自分のことばを制限し、じゅうぶんにこころを伝えられるかどうかよく吟味もしないで、感情をそのまま投げつける。短い文から、あいてのこころを深読みしたり勘ぐったり、感情を十分洗練させないまま、ことばにしてまた投げつける。
 こんなことばのキャッチボールでは、機械をつかいこなすどころか、機械の制限によって、相手のことばに翻弄され、右往左往するばかりである。
 アメリカ大統領が交代してから、わたしたちはさらに世界のリーダーとされるアメリカ大統領の発信する実に短いツイッターの文章に、右往左往している。株価は上がったり下がったり、企業も政府も報道も先が読めないでいる。
 これでは、豊かな想像力の羽をはばたかせていたラスコー壁画の時代よりも、こころは貧しくなっているようではないか。

 沖縄・辺野古の新基地建設問題も、アメリカ側の意向に合わせて、いわばそこに住んでいる当事者のこころを無視して、政治的な都合に合わせて、強引とも思える性急さと暴力的高圧的な力で進めているようにおもえてならない。
 さらに、沖縄問題の報道の仕方も首をかしげることがあいついだ。
 報道番組という体裁をとっているテレビ番組の中で、反基地運動をする一般市民たちに対する『意地の悪い』表現をすることには、どうにも後味の悪さを感じてしまう。そのキャスターが東京新聞の肩書があることと、東京新聞本社のお詫びとがもし無関係であるというのなら、肩書なしでキャスターをするほうがいいのではないかと思えるのだが、どうだろうか。
 世の中が『攻撃的」で『底意地が悪く』『シニカルで』『上品ではなく』『自分ファースト』な傾向にあると思えるのは、なにかうらさみしい。
 このままでは、意地悪な攻撃に対して構え、からだを硬直させ、常に緊張させ、つっぱっている人が増えてもしかたがない。
 攻撃されたら、攻撃しかえすように反応してしまう人が増えてしまうかもしれない。
 それではそれこそ、『憎しみの連鎖』『報復の連鎖』の繰り返しである。
 大きな世界の問題だけではない。自分たちの、小さな世界もまた、たぶん世界の動きとシンクロしているのだ。このシンクロに抗うには・・、そう『意地悪』に対しては『親切の倍返し!!」いや「親切のおしつけごり押し三倍返し!!」でいこうではないか。
 けして、攻撃というブーメランを放らないようにしよう。
 なぜなら、かならずそれはわたしの、あなたのもとにもどってくるのだから。
 今年は酉年、大きな変動が起こるかもしれないと言われてもいる。
 鳥がくちばしでつついて攻撃するのであれば、攻撃に対しては、さとくありたい。同じようにくちばしでつつくのではなく、大きな羽をつかってはばたきとびたち、俯瞰したところから冷静に眺め、想像力の羽をたくましくのばして、いまこそ創造しよう。
 短い物語ではなく、先祖たちが繰り返し伝えているメッセージがこめられた長い物語を、いとわず丁寧に読み解こう。向き合おうと思う。
 たいせつなものが指からこぼれてしまわないように、辛抱強くひろいあげていくこと。
 竹富島の種子取祭の由来伝承について、『家の光』5月号に原稿を書くに当たり、知った気持ちになっていた昔の物語にあらためて向き合うことができた。
 わたしはこのチャンスを与えられたタイミングに今、こころから感謝している。
 今年は、「わたしってフラーなんです」を肝に銘じつつ、フラーなりに考えていきたいと思っている。