三輪明宏さんのロマンティック音楽会へ行き、男と女の関係について考察。

 久しぶりに三輪さんのライブが松戸で開催されるというので、早速申し込む。

いつもながら感心するのは、照明と舞台装置である。
 照明の当て方を変えることで、何層にも重ねた背景の書き割りが、唄によって違うシーンを演出するのだ。
 今回は特に舞台の前のライトで、三輪さんのシルエットが大きく舞台に伸びる効果に舌を巻いた。唄の中で描かれる歌い手のこころがにゅ〜っと歌い手の肉体からはみ出て、ムンク「叫び」の絵のように立ち上がってみえるのが印象的だった。
 こういうスタッフたちのプロフェッショナルらしい仕事ぶりを見ると、やはりプロの舞台はいいなあと思う。
 が、なんと三輪さんは御年82歳!唄いながらステップを踏み軽やかにおどる姿を2階席から見ていると、とても80代には見えないのだが、「やはりこういう曲を踊ると息がきれますわね」と話すMCの声は少し弾んでいる。
 いやいや、これでは80代でなくとも、息切れして当たり前である。
 三輪さんの『ヨイトマケ』は、なみだがやっぱりあふれてきて勝手に頬をつたう。
 演劇的な歌いっぷりに、安心して身も心も委ね、その迫力にこころがすさぶられる快感に酔いしれ、すっかり素直な気持ちになっている。椅子からからだを離して前傾姿勢で見ている人も多かった。曲が終わって、次のMCが始まるまでずっと拍手を続けている観客たちが、毎回いるのも感動的だ。

 ライブは『生きる』というテーマでいろいろな生を表現した唄のラインナップ構成なので、三輪さんは障害者の方の気持ち、貧しい人々の気持ち、男に尽くしてつくしぬく心の優しい娼婦の唄、不倫の唄、恋の歌を次々と唄う。
 いつも世情を斬る鋭い話に胸のすく思いがするのだが、娼婦の唄の前ふりの話に、はっとした。
「わたしたち国民は、男にどんなに暴力を振るわれても、ひどいことをされても嘘をつかれても、お金をまきあげられても、文句ひとつ言わずにしたがう気のいい情婦ですよ」と。そういう政府にしたのは、わたしたちに責任がある、と。
  5月の二宮町でのトークイベントと展示のころから、世界情勢にしろ、日本の政治にしろ、激変が続いている。いや酉年になってから、変化がいちじるしい。
 トランプ大統領アメリカ第一主義政策とロシア疑惑、フランス選挙、イギリス選挙、北朝鮮のミサイル攻撃、世界で続くテロ、日本経済の不安、森友学園加計学園問題、辺野古新基地建設、築地市場移転問題、そして「共謀罪」法の強行採決・・。まだまだあるが、次々にメディアを賑わすニュースに覆いかぶされてしまって、深く考えることもなく違和感を抱えたまま、毎日を送っている。
 『共謀罪』法の成立がなぜあんなにも性急だったのか、疑問と憤りを抱えてテレビをみるだけで、わたしは駅やバス停でみかけた市民の少数の方々の抗議のデモを横目でみても、用事のためと言い訳するようにひとりごちて、そのまま通り過ぎただけだった。
 これでは、政府という横暴なやくざな男に尽くすだけ尽くして、何をされても言いなりの情婦以下ではないか・・。
 三上智恵監督のドキュメンタリー映画『標的の島 風かたか』に登場した山城博治さんが、辺野古新基地建設の反対運動の活動中、有刺鉄線を切ったというだけの器物破損容疑で逮捕され、5か月の間勾留された。
 東京中野ポレポレ座での上映会のときには釈放されており、映画の完成の祝辞と釈放のコメントを三上監督に託していた。観客は三上監督の読み上げるヒロジさんのことばを聞いて、実にリアルに辺野古問題は「わたしたちひとりひとりの問題だ」と感じたはずであった・・。
 6月17日の朝日新聞朝刊には、スイスはジュネーブで開催中の「国連人権理事会」の関連行事でヒロジさんが「日本政府は集会結社の自由、表現の自由など市民の人権を尊重すべきだ」とスピーチしたという記事があった。

『海外の人権団体などの支援や働きかけがなければ釈放はなかった。長期間の拘束は政府に抗議する市民への見せしめで、不当な弾圧だ。こうした圧力が今後も市民にくわえられるのではという疑念をぬぐえない」
 ヒロジさんはこう述べたという。
 二宮町でのイベントの後さまざまなことを考えたり、感情を整理したり、対応を考え連絡したり、大きなことを考えるよりは、小さなことにふりまわされていた気がしていた。
 しかし、自分が身の回りで起こったことにどう対処するか、どのように対応するかは、実は国家に対する国民の姿勢と無関係ではないと気が付く。
 というのも、疑問をもったことをそのままにするか、それとも、よくよく相手と話し合い、時間をかけても互いに納得しあってことを勧めるか。
 その対応をどうするかは、相手が国家であろうと会社であろうと個人であろうと、本質的には変わらないのだ。
 小さな声をあげることをしない理由はなんだろう。
 大きな圧力への恐れや不安?
 相手との関係?
 でも、国家という相手はわたしたち国民がつくりあげていくもの。
 相手との関係も、お互いに作り上げていくもの。いまはわからなくても時間を見方に付けるという手もある。
 二宮町生涯学習センター『ラディアン』での山本義一遺作展に来てくださった、山本義一のいとこにあたるシスター鈴木秀子さんの妹さんと出会ったことで、わたしはそのあとシスターの本を手にすることができた。


 
 シスターは玄侑宗久氏との対談集『多生の縁』の中で「もしいやなことがあった時には、ああ、これもきっと意味があって起こったんだ、どんな意味があるか今はわからないけれど、いつかそれが分かる時が楽しみだと、そんな聖なる諦めを持つことが大切ですね」と言っている。聖なる諦めは、きっと時間を味方につけることで可能になるのではないかと思う。
 と、同時に、相手との関係を決めつけず、もしそれが、アンバランスなものであったなら、対等で尊敬しあう関係に自分から変えていく努力をすることも無駄ではない、と思うのだ。自分の意識がかわっても、相手との関係が変わらないのなら、時代が変わるのを「聖なる諦め」で待つのである。
 三輪さんは、歌い手としてデビューしたときに差別的な対応をされて白眼視された時期を経験している。しかし、いま不死鳥のごとく甦り、メディアに登場し、唄も芝居も多くのファンから支持を得ている。
 それは、自分を信じて姿勢を変えずに主張してきたことが、ようやく理解されるようになったことのあらわれだろう。
 したたかに、しなやかに。
 恐れと不安を上品で優雅な、でもこびないぶれないふるまいに変えるコツ。
 三輪さんのMCや本から教わるのは、そういう強靭なセンスである。
 昨年11月に漫画家 細川貂々さんと一緒に竹富島種子取祭に行った時のことを描いた貂々さんのコミックエッセイは「家の光」5月号に掲載されている。


『家の光』5月号のこのコミックの次の2ページが、なんと三輪明宏さんの連載ページ『三輪明宏の人生相談』であった。これはほんとうに痛快なページで、家の光協会から何冊も連載が単行本化され出版されている。今回のライブ会場でももちろん販売されており、ライブ終了後にはもう、この本は完売していた。


 ライブのはじまりのほうのMCでは、三輪さんは自分自身を客観的に見る視点として、自分を笑ってしまうという手があると語っていた。
 理不尽な上司に翻弄されるサラリーマンや傲慢な夫をもつ主婦たち。そんな暮らしは「わたしにはとてもできませんね」といいつつ、そういうフツ―の人々の日常を描いた漫画の効用について触れていた。
 漫画を読んでストレスを発散させることができる。笑いによって自己客観視できる、と。
 嫌なことを「笑い」や「ユーモア」に変えることで、日本人は上手に生きてきた文化がある、というのである。
 そういえば、わたしは最近、細川貂々さんなら「あのシーンをこんな絵にするだろうなあ」と、ありありと漫画を思い浮かべることができる。キャラクターの表情まで。
 それで思わず、くすっと笑ってしまうことができるのだ。
 まあ、実際に漫画のようなワンシーンだったのではあるが。