「曽我兄弟」は二宮と竹富を結ぶ糸だった。

 初日の芸能奉納の最後の演目は、曾我兄弟であった。

 この曽我兄弟は鎌倉時代の仇討をテーマにした狂言で、毎年の種子取祭で演じられている。歌舞伎や浄瑠璃にもある有名な演目だが、いつの時代に竹富島に伝えられたのか、いつも不思議に思ってはいた。
 うつ回復後に新橋演舞場で歌舞伎を見る機会があって、大浜荘のお母さんが上京してきているというので、大浜の母子と一緒に見に行ったことがあった。
前から3列目という上等席、にもかかわらずうとうとしていたお母さんが、セリフを聞くや「曽我の仇討ね?」と目を覚ましたのである。
 わたしをふくめ、歌舞伎鑑賞中のどれほどの客が、「曽我兄弟」のセリフを覚えそらんじているだろうか、とびっくりしたものだった。
 子どものころから毎年見ている種子取祭の演目は、島人の身にしみついているのである。文化度が高いといってもいいのではないだろうか。
 ことしの夏、ちょうどお盆のころ、大磯の父親の菩提寺に墓参りに行った帰途、大磯駅そばにある鴫立庵に立ち寄り、涼しい境内で一服したときのこと。
 ちいさなお堂のなかに、きれいな像が祀られてあった。
 たて札には、虎御前とあった。
 『曽我兄弟』では、弟の吾郎時宗の恋人として登場し、兄弟を敵の陣屋に案内する女性である。
 種子取祭では、虎御前役の男が女装して灯をもってあらわれ、甲高い裏声で
「浜にゆらるる浜千鳥、こなたは兄、十郎祐成殿、かなたは弟、五郎時宗殿、仮屋御殿へご案内いたす〜」

と、セリフを言うと、観客がいっせいにその作り声に笑うシーンがある。
 虎御前は、宿場町大磯の遊女であった。兄弟の死後、菩提を弔うため仏門に入ったようだ。
 驚いたことには曽我兄弟の墓が、二宮の実家のすぐそばの知足寺にあったのだ。
 翌日、知足寺を訪ねてみると、お盆とあって多くの方が花を携えて墓参に来ている。たしかに曽我兄弟の墓という案内板があり、奥の方の古くて大きな石ふたつが曽我兄弟を祀る墓石のようだった。兄十郎の姉が造った墓であるらしいが、東海道にはほかにも兄弟の墓とされる場、ゆかりの地があるらしい。
 二宮と竹富島が、「曽我兄弟」でつながったことに、わたしは驚いたものだった。
 10月に二宮の生涯学習センター、ラディアンのギャラリーで父・山本義一の三回忌の遺作展を行った折に、ラディアンのスタッフだった女性が、なんと知足寺の孫だったことがわかり、南の島でなぜか「曽我兄弟」の狂言が演じられていると話すと、彼女はこう言ったものだ。
「鳥肌がたってる、いま」
 さて、種子取祭り初日の芸能が無事に終わったところである。
 神前でいばん拝みの儀式が行われている。
 神司はじめ主だった人々は、神さまの象徴であるいばん(みかんの葉)を手ぬぐいのあいだにはさみこんで頭に締める。
 これは神さまであるから、ユークイのあいだじゅう落とさずに家々をまわり、翌朝の儀式までなくしてはいけない大事なものだ。
 わたしたち観光客はもちろん、いばん抜きで参加するほうが安心だ。会場で観光客向けにユークイの歌詞集とセットで販売しているてぬぐいをあわてて頭に巻き、行列に参加する。
 細川貂々さんと根原家にまわった。
 座敷に上がってお浄めの塩、お神酒、にんにくとタコをいただき、歌集をみながら掛け合い唄を歌う。


 みんなでこころをひとつにして声をはりあげてうたう歌こそが、祭の本質的なものをになっているのではないかと、わたしは毎回、うたいながら思う。韻を踏んでいるうたとメロディーが20数年のあいだに身に沁みついているらしく、このときになると、自然にうたえるから不思議だ。
 ユークイはこのあとも続いているが、民宿は食事なしなので、祭のあいだも営業している店をさがして夕食をとり、いったん宿へ。
 あしたの早朝に備えて早めに就寝することにしたが、ユークイの行列が内盛家にやってくるのが聞こえてきたので、駆けつける。
 どうにも、ちむわさわさ〜して、やっぱりおとなしく布団に入ってはいられない。
 こんなふうに、三つの集落からは、それぞれをまわるユークイの行列の銅鑼や太鼓の音、道歌が聞こえてくる。この晩、島は眠らない。
 二日目の朝、5時前に起きだし、世持御嶽へ。行列がやってくるのを待つ。
 いばん納めの儀式が終わると、長老たちが舞台に上がって、延々と酒と酒肴をサーブしあうカンタイの儀式、ついで仲筋集落のシドリヤニーという4人の長老の芸能が披露される。神秘的な、と評されるこの踊りは、長老たちが「ほうへ〜」とため息をつくのが、なんともおもしろい独特のものだ。

 終わるころには、ようよう鳥居の向こうの空がブルーから白みを帯びてくる。
 夜が明けたのだ。
 いったん宿に戻ると、東の空は見事な朝焼けであった。

 軽い朝食後に細川一家とともに、仲筋の主事の家で行われているはずの参詣の行列をおいかける。貂々さんとわたしは、主事の家で饗される一行を庭で待ち、行列のうしろについて世持御嶽までの道のりを歩きだす。
 仲筋から世持御嶽まではけっこうある。


 道歌をうたいながらあるいていくと、空は晴れ渡り、白い星砂の敷き詰められた集落の道は白くまぶしく輝いている。朝日のつくる影が斜めに長く伸び、羽織袴に紺地の衣装の行列は、影とともに、はるかむかしからの祖先たちとおなじ道のりをたどってオンにむかう。

 ちょうど、うぶふるの丘の手前にさしかかろうとするとき、先ほど別れた望月さんと息子のちーと君がなんと、絶好のポジションで行列を迎えているではないか。
 行列の先頭は神司と神さまであるから、行列の前に出てはいけない。そのことは固く守らねばならないので、わたしと貂々さんは行列の後ろから撮影するしかなかったのだが、望月さんはいま最高の撮影ポイントから行列を撮影していた!
 そのまま、行列は世持御嶽の境内へ。


 多くの撮影スタッフ、観光客がすずなりになって行列を迎える。行列は丸い円を描くように体勢を変えて巻歌をうたい、ガーリと呼ばれる乱舞が行われる。
 こうして、今日もまた庭の芸能がはじまり、仲筋集落の芸能奉納が繰り広げられるのだ。
 そして、今日は父・山本義一の命日であった。