竹富島種子取祭は、出会いとメッセージをいただく磁場。

 思えば、うつ回復後8年ぶりに種子取祭に来たのが2013年。
 このときは、コーラルウエイの連載当時から一緒に来ていた写真家飯田裕子さんと一緒であった。飯田さんが記念にと、写真をとってくれたものだ。

 2014年は、父・山本義一が亡くなってすぐであったが、初七日を済ませていたので、思い切って遺影をもってユークイに参加した。
 そして、去年の種子取祭は、ゆがふ館での展示に始まり、名護市愛楽園の記念館ギャラリー、琉球新報天久本社ギャラリー、那覇国際通り那覇市てんぶす文化館ギャラリー、ついで二宮ラディアン(生涯学習センター)での一連の山本義一遺作展を終えての、まさしく神々への報告と御礼詣りに来たのだった。


 今年は、はや三回忌である。
 芸能奉納の前日、貂々さんとともに世持御嶽への道すがら、宇根家にふらりと立ち寄ると、準備に忙しい宇根家の勝松さんが、顔を見てこう言った。
「東杜が23歳になって、今年から中学校の先生になったよ」
 なんということだろう。
 23年前の種子取祭の日のユークイの晩に、誕生した東
杜くんが、もう23歳になっている!
 このときのいきさつを雑誌に書いて以来、成人した東杜くんには会っていない。
 しかし、その23年間という時間、生まれてきた命が育ってきた時間、そして私自身が積み重ねてきた時間が、圧倒的な存在感をもって、迫ってきた。
 ずしりとした手ごたえを感じて、宇根家の敷地内に敷き詰められた星砂に、足が食い込むかと思われるほどだった。
 「いや〜、これを知っただけで、もう今回の種子取祭は充分だ」
 そんなことを、つい貂々さんに口走ってしまったものだ。 
 しかし、それは序の口であったことは、翌日の芸能奉納を終えてみるまでは、わたしにはわからなかった、のである。いま思えば・・。
 一日目。弥勒奉納殿での弥勒おこしにはじまる早朝からの儀式を終え、

華々しく庭の芸能が繰り広げられる。


 マミドーマ、ジッチュ。コミカルな腕棒。馬ぬ者、棒術。


 衣装だけでも竹富島のかつての暮らしぶりと歴史がすけてみえてくる。
 この日の芸能奉納は、東と西集落のもの。
 ホンジャーが五穀をぶらさげた棒を持って現れる。
 ホンジャーは村の長であるが、祭を行うことを役人に許可を求める。その許可を得て、これから芸能を奉納いたします、と告げて、いよいよ弥勒の登場だ。


 この『大国の弥勒、竹富にいもち』という歌詞と、「ちゃんちゃらら〜ん、ちゃんちゃらら〜ん」という伴奏の笛が流れてくると、福の神が現われたような、ありがたくおめでたく、またにぎにぎしい空気がさあっと波のように会場にひろがっていくから不思議だ。
 弥勒は子だくさんのお母さん神なので、たくさんの子どもを引き連れて登場する。
 島の子どもたちがかわいい赤や紫の頭巾姿で、手をつないで舞台に登場すると、観客たちは大喜び。



 さきほどまでこどもたちのご機嫌をとりながら小さな頭を押さえて頭巾をまきつけるのに大わらわだったお母さんたちは、舞台の前端まで出てスマホをかざしている。
 おばあたちは、拍手喝采の大喜び。舞台の一番前の小学生たちも、今年が生まれ年の「まりどし」のひとたちも、観光客も一体となってこの福をわかちあう。
 まさに『弥勒降臨』である。わたしは、とくにこの合いの手、ちょっと甲高く歌われる「さ〜さ〜、ゆ〜や〜さ〜、すりさ〜さ〜」が好きなのだ。
 弥勒のお付の者たちが踊る、体操のような振付の独特の『シーザ踊りの歌』もまたユニークだ。ユークイのときに夜も更けてくると、家々で披露されることがあり、両手をそろえて器械体操風に踊る男性4人の姿は、なかなか印象的だ。


 『ヤーラーヨー』の歌に乗って、弥勒と子どもたちが退場すると、いよいよ芸能奉納が繰り広げられる。
 が、この弥勒の登場前に、弥勒奉納殿にいくべきであった、と気づくのだが、初日は時すでに遅し。
 実は、ことしは弥勒役の与那国家の当主が、世代交代する記念すべき年であったのだ。舞台での弥勒登場の前に奉納殿へ行けば、弥勒のお面を奉納殿から取り出す与那国家の儀式に立ちあえたのだ。二日目もまた弥勒が登場するので、明日こそは、と心に誓う。
 さらに今年は、去年までは演じられていなかった演目『ボーイズ』が66年ぶりに(人によっては、50数年ぶりというのだが)出されたのも驚きだった。

 なにしろ、これこそ戦後、復員してきた島人たちがはじめた楽団『スバル座』の再現であり、2005年に上梓した『島唄の奇跡 白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病』(講談社)で取材した、石垣島白保の音楽バンド「白百合クラブ」の竹富版であるのだから。
 文献で知ってはいたが、こうしてスバル座の行っていた公演を彷彿させる音楽劇の再演に、わたしは興奮しっぱなしであった。
 神様からのギフトは、そのあとも続いた。