募金終了のお知らせ1 感謝と御礼!!
おかげさまで、3月31日をもちまして、竹富島ゆがふ館での山本義一展示のための額縁募金を終了いたしました。
たくさんの方からご寄付をいただきまして、誠にありがとうございました。
こころよりあつく御礼申し上げます。
ご寄付によって、注文したゴールドの額縁が届き、お送りくださった額縁もそろったところで、竹富島を描いた山本義一の6号の絵と8号の絵合計9点を額装することができた。
小春日和の午後、二宮の実家の階段に並べて撮影すると、なかなかに壮観だった。
義一は多くの絵をゴールドの彫刻のある額に入れているので、今回も竹富島のシリーズは金の額縁にしようと決めていたのだ。
額はデザインがそろっているわけではないのだが、春の日差しに輝いて絵がいちだんと映えるようで、うれしかった。義一も絵の晴れ姿を見て喜んでいることと思う。
みなさま、ほんとうにありがとうございます。
今回の展示費用の不足分は、遺族の意向もあって義一の妻・妙が費用を補うことになった。11月の命日の頃の一周忌には、毎年義一が行っていた二宮生涯学習センター『ラディアン』での展示も予定しており、この1年間は供養のためにも展示にかかる費用は妙が負担することになってほっとしている。
今年は戦後70年である。なんとか満州での戦争体験を描いた百号の『噫、牡丹江よ!』や二宮周辺の百号の風景画を展示したいものだ。
今回竹富島で展示予定の百号の絵は、実は組み立て式の額が届いたものの、3階のアトリエから狭い階段を通っておろしてくるのがむずかしく、まだ準備中という状態だ。なんとか人を頼んで早々に額装したいと思っている。
お彼岸ということもあって、絵のお仲間の湘南美術クラブの奈良淑子さんや、近所の方々、母のお仲間にも絵を見ていただいた。
奈良さんからうかがう義一の話はなかなかおもしろかった。
戦争体験については、最後には「とにかく逃げる、逃げるが勝ちだ」と冗談めかして笑って話していたという。元日本兵であることを隠して、9年近く満州にいた義一が95歳まで生きてこられたのは、確かにソ連兵から逃げて逃げて生きのびたからである。
沖縄戦を描いた丸木位里・俊夫妻の有名な『沖縄戦の図』を、普天間基地に隣接する佐喜眞美術館で見たことがある。そのとき、美術館のスタッフをしていた(現在は辺野古在住の作家)浦島悦子さんから聞いた説明は今も忘れられない。
2枚の絵が隣り合っており、1枚は、男が女を、大人が子供をあやめるというガマ(壕)のなかの悲惨な集団自決の絵。もう1枚はひとりの人間も描かれていないガマの絵。全員がアメリカ軍に投降したガマの絵であった。
ハワイ帰りのウチナーンチュが「アメリカ人は決してひどいことをしないから白旗を上げて出ていこう」と説得して、全員が無事だったと、浦島さんは教えてくれた。
生きて辱めを受けるくらいなら自決を、そう教えられてきた当時の日本人が、なにを信じるか。価値観を反転させられるか。
生死を分かつ最後の鍵はまさにそこにあったのかもしれない。
生きて生きて、生き抜く。そのことの大切さ。それがわかるのは何十年もたったあとなのだ・・・。
そんなことを思った。
また、義一には県知事賞を受賞した百号の絵が2枚ほどあるという。仲間うちで今も話題なる「いい絵ですよ」と奈良さんは言った。『黄色い服の女』と『浴衣で夕涼みをする女』という人物画だというので、探したのだがみつけられなかった。妻によれば、賞には頓着せず、枠から外してしまったり、上から塗りつぶしてほかの絵を描いたり、自分なりの評価基準をもっていたようである。
一周忌の展示までには探しておこうと思う。
ただ、収穫もあった。この季節にぴったりの絵を見つけだすことができた。
満開の桜の並木道を描いた絵と、だいぶ以前に描いたらしい「金田の枝垂桜」の絵。
みなさまに、こころからのお礼と感謝の気持ちをこめて、ピンク色の春爛漫の山本義一の絵をここに紹介させていただきます。
額縁募金へのご協力、ほんとうにありがとうございました。
ネットによって人とつながることができるという、すばらしい体験をさせていただいたことにも深く感謝しております。
吉江真理子 拝