竹富島で山本義一の展示が決まりました!感謝と御礼・鶴岡真弓とともに その2

 今回の竹富島滞在は、友人で多摩美術大学、芸術人類学研究所所長の鶴岡真弓と、同行の研究者、松嶋健さんと合流することになっていた。

ふたりが竹富港桟橋に着いたという連絡が入ったとき、わたしは民芸館の島仲由美子さんと話していた。あわてて由美さんの車で港に急ぐと、ふたりがこの夜宿泊する民宿、野原荘のお迎えの車がきていた。驚いたことに、野原荘は由美さんの実家で、民宿の主はなんと由美さんの弟さんだという。ふたりを迎えてそのまま民宿 野原荘へ。わたしははじめて訪れる宿だ。

 しばしの休憩ののち、民芸館で由美さんの説明をうけながら、ミンサーや八重山上布、芭蕉布、グンボウなどの展示品を順番に見たあと、島の織物の絣文様の図柄を鶴岡さんとともにみつめる。ケルト研究家鶴岡真弓に見せたいと思っていたもののひとつは、やはりこの絣の文様だった。
 ケルトの渦巻き文様や動物文様、植物文様はうねうねとからみあい、独特の世界観をあらわしている。1990年にはじめてアイルランドツアーに参加して、鶴岡さんの説明をうけつつトリニティ・カレッジの図書館に展示されていた『ケルズの書』(岩波書店 鶴岡真弓訳で1月発刊)を見たときの衝撃は、今も忘れられない。まったく異なる民族の感性、宇宙観、世界観。しかし、どこかアイルランドと沖縄は似ている、という直感があった。アラン島、スケルグ島は、竹富島に似ている・・。モハーの断崖に腹ばいになって地球の西の果ての海を覗き込んだとき、こんどは東の海の果て、八重山に彼女を案内したいものだ・・・、そう思った。
 その思いは、沖縄を旅してきた長い時間の底にいつもあった。二つの文化の共通点をみいだしては、ひとりあのときの直観を再確認してきたようなものだ。
 ケルトの文様と八重山の絣との比較もまたおもしろいだろう、ぜひその視点で島をみてもらおう。ようやく20年以上たって鶴岡さんを竹富島に案内する機会がめぐってきたのである。
 もちろん、このあとの日程の中で喜宝院蒐集館に展示されているミンサーの「五四(いつよ)」の帯や、「九八(くくるぬはまい)」の花嫁の頭巾など、文様がもつ意味や記号、そこにこめられた願いや呪術的な力などについて、館長の上勢戸芳則さんの見事な話術によって説明してもらうことになっている。ワラサンやハジチなど、文様を考えるうえでもぜひとも見てほしいものもあった。

 しかしその前に、織物作家でもあり、島の神司でもある由美さんから話を聞くことができてほんとうによかったと思う。
 その晩は竹富港から対岸の石垣島の花火見物を楽しむ。昨夜は頭上の大きな花火を、今夜はかなたの小さな花火を見るというぜいたくさ。そのあとの野原荘での島唄宴会では歌ったり踊ったり、おおいに汗をかいた。
 そして、2月22日の夜は、まちなみ館において芳則さんの司会で交流会があった。
 上勢戸同子さんが披露してくれた『むりか星』という、スバルを讃える唄のすばらしさ。
 神司の新田初さんの教えてくれた邪気払いのススキの結び方、マブイグミのやり方。
 鶴岡さんの指摘する琉球王朝の三つ巴紋と、ケルトの渦巻き文様トリスケルとの一致、そして奇しくも会場となったまちなみ館の前にある西塘御嶽の屋根の三つ巴紋について・・。

 いままで竹富島を訪ねてみつけた小さな宝物が、苧麻の糸でつながれネックレスとなり壮大なストーリーにつながっていくような、その首飾りを会場のみんなでつないでいくような、スリリングでエキサイティングな、わくわくするような瞬間があった。
  会場のひとりひとりが結び目となって、その場におおきなマブイグミの輪を、あるいは結界をつくるような感覚・・。
 2時間があっという間にたって、わたしは同子さんに名刺を渡す。
 芳徳さんは開口一番、わたしがはじめたホームページ「シマウタキ」を、ウタキという名前で・・、と切り出して紹介してくれた。しかし、実は『島唄の奇跡』の著書名の頭の音からシ・マ・ウ・タ・キと名づけたところ、御嶽(ウタキ)と重なったのだと話すと、同子さんはこんなふうに言った。「島の神さまにご縁があったんでしょう」
 ありがたかった。
 竹富島に通ってきた長い時間は、わたしの財産である。
 その財産をみんなでわかちあうことが、さらに豊かで実り多いものに発展させてくれる。神さまに対して恥ずかしくない仕事をしていきたいと思った。
 そして、父・山本義一の絵画を「ゆがふ館」で展示できることも、まさしく島の神々からのプレゼントであると思えてきたのであった。[